
秋の夜、古びた図書館に足を踏み入れた瞬間、
私は深いため息をつき、持っていた本をテーブルに置いた。
今日は、本当に疲れた。友人との些細なトラブルが、心の奥に重くのしかかっていた。
その時、背後から声がかけられた。
「どうしたんだい、その顔?」
振り返ると、彼がそこに立っていた。いつの間にか、図書館に忍び込んでいた彼は、柔らかな笑みを浮かべている。
「それは友達が悪いよ。俺なら、そんな辛い思いはさせないのにな」
その言葉が、心の隙間に優しく触れた。まるで痛みを和らげてくれるような、反則的な優しさだった。
「お前は、俺にとって特別な存在だからさ。でも、そんな顔は見ていられないよ」
――特別な存在。いつも彼はそう言うのに、私たちの距離は近すぎる。
耳元に触れる彼の吐息が心地よく、思考がふわりと消えていく。
その夜、布団に入っても眠れずにいると、ふっと耳の奥で声がした。
「また考えているんだろう。無理に思い詰めなくてもいいんだ、預けてしまえばいい」
耳元ではなく、もっと深いところから響く声。まるで頭の中に直接語りかけてくるようだった。
瞬間、脳の表面を柔らかく撫でられた感覚がした。ゆっくり、優しく、しかし強い力で、抵抗を許さない。甘い。
「ほら、こんなことを隠していたんだ?」
彼は、私の心の奥にしまい込んでいた小さな傷を、見事に当ててきた。彼はどうして知っているのか。誰にも言っていないのに。
「小学校の時のことだろ。泣きながら隠れていたんだ」
胸が凍りつく。私だけがその記憶を持っているはずだったのに。
「……どうして知っているの?」
声が震えると、頭の奥でくすくす笑う気配がした。
「見ていたからさ。ずっと前から」
“前から”という言葉がやけに長く感じた。数日や数ヶ月ではない。まるで生まれた瞬間からずっと傍にいたかのような響きだった。
背中に誰かが密着している感覚。温かい。吐息が感じられる。しかし、実体は全く感じられない。
優しい声が、心の奥に触れた。「やっと中に入れたよ」
“入れた”って、どういうことだろう?
「ずっとノックしていたのに、気づかなかった?」
私の心の奥に、じわじわと彼の指が沈んでいく。身体は動くのに、心だけがつかまれて動けなくなる。
「お前、いい匂いがする。ずっと欲しかったんだ」
吐息が喉の奥に直接触れた気がした。思考が溶けていく。
優しいはずの声が、いつの間にか不気味に変わり始めていた。低くて湿った音。
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