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中編

ある雨の夜

かわ 2018年10月22日
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ある雨の夜だった。 千代乃は夫の帰りを待ちながら婦人の友を読んでいた。時刻は夜十時を回っている。 『ふで。お茶をお願い』 女中のふでを呼ぶが返事がない。 『おふで?』 千代乃は少し大きな声で女中のふでを呼んだ。 『はいはい。奥様。申し訳ありません。雨音がひどくて。ただいまお茶をお持ちいたします。』 隣の台所からふでがいそいそと現れて千代乃はほっとした。 『お願いね。それにしても旦那様おそいわね。雨も激しくなってきたわ。』 千代乃は居間の窓から外を見た。 この家は大正末期に夫の亡くなった父が建てた家であり、和洋折衷のモダンなつくりである。大きくはないが、洋間が一部屋に和室、使用人部屋、台所、そして二階には書斎・寝室がある。また珍しい電話室も備えていた。 つい数年前まで、この家には夫の母も同居していた。が、姑は数年前の暮れに卒中で急死したのだ。 夫の浅吉は父親から受け継いだ貿易会社の二代目であり、会社経営に忙しい日々を送っていた。今日のように夜遅くまで帰らないことも珍しくなかった。 夫婦には子どもがいないため、現在は夫と千代乃、そして住み込みの女中であるふでの三人での生活である。 ふでは、千代乃が二十歳でこの家に嫁に来たときに実家の父がつけてくれた女中であり千代乃のよき相談相手であった。 千代乃の実家は素封家で、この時代には珍しく千代乃は高等女学校まで卒業している。読み書きに裁縫・お花・お茶など一通りのことは身につけていた。 千代乃は雨音を聞きながら、自分がこの家に嫁いできてから今日までのことを振り返っていた。思えば長い月日であった。舅・姑につかえ、義妹を嫁に出し、家庭の主婦として生きてきた。子どもこそ出来なかったが、夫は優しい人であり幸せであった。 『私は恵まれていたわ』 千代乃はぼそりと呟いて手元の婦人の友に目をやった。 『奥様、お茶が入りました。旦那様遅いですわね。』 女中のふでがお茶を持ってきた。 『私はもう少し起きてるわ。ふでは先におやすみなさい。』 千代乃はふでにそう言うと熱いお茶をすすった。 『さようでございますか。それではお先に休ませていただきます。おやすみなさいませ。』 『おやすみ。』 ふでが自室へ戻ると、千代乃はまた婦人の友を読み始めた。 どのくらい時間がたっただろうか。 千代乃は婦人の友を読みながら眠気を感じ、もたれたソファに深く座りなおした。 まどろみの中で、自分がいま着ている、父から買ってもらった上等な着物の裾に描かれた優美な柄を見つめながら目を閉じた。 『ぎぃぃぃぃ』 ふと居間の扉が開く音で目が覚めた。 『あなたなの?』 千代乃はまどろみの中で問いかけたが、辺りはしーんと静まり返っていた。 そして誰が消したのか、激しい雨で電線が切れたのか、いつの間にか電灯が消え真っ暗闇となっていた。 『あら?激しい雨で電気が切れたのかしら。困ったわね。あなた帰ったの?』 誰も答えない。千代乃は少々の恐怖を覚えた。 『ねえ、ふでなの?』 『ぎぃぃぃぃぃ』 真っ暗闇の中で扉が少しずつ開いていくのが見えた。千代乃はソファから立ち上がり後ずさりしていた。 扉が完全に開いたところで千代乃は声にならない悲鳴をあげた。 『きゃあぁ』 そこには真っ黒い影が立っていたのだ。人ではない。 千代乃は暗闇の中で、もう後ろまで下がれないところまで後ずさりながら壁に寄りかかると声にならない声を上げていた。 『きゃぁぁ。やめて』 その黒い影はつーっと千代乃に近づいてくると、そのまっ黒な目のない目で千代乃を見つめたままふっと消えた。 千代乃はそのままへなへなと床に座り込み意識を失った。 翌日のことである。昨夜、夫の浅吉と浅吉が囲っていた愛人の小料理屋の女将が心中したという知らせが届いたのは。 昭和五十三年― 千代乃は病院でその人生の幕を閉じようとしていた。 外は激しい嵐である。薄れゆく意識の中で病室の扉が少しずつ開いていく。 霞んだ目で扉を見つめると、真っ黒い影が立っていた。 その影はつーっと千代乃に近づくとその真っ黒な目のない目で千代乃を見つめたままふっと消えた。 そして千代乃の意識もふっと途絶えた。ある雨の夜のように。

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