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長編

緑の文化大革命

しもやん 2020年4月6日
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〈自然主義の誤謬〉という格言があるのをご存じだろうか。  20世紀中葉、第二次大戦から復興しつつある世界は繁栄を極めていた。経済成長は右肩上がり、テレビ、冷蔵庫、エアコンといった必須アイテムが登場したのもこのころである。人びとはバラ色の未来を容易に思い描くことができた。  ところが繁栄の裏には醜聞が隠れていた。企業は負の外部性※をともなう環境破壊をさんざんにやらかしていたのだ。水俣病、四日市ぜんそく、イタイイタイ病。大勢の人間が犠牲となった。 ※有毒な工場排水をろ過しないまま垂れ流すなど、コストを支払う主体が自分以外の多数に分散されているような行為は過剰に促進される。これらをやめさせるには汚染に対する税を課す(=ピグー税)ことや汚染許可の購入など、経済的な解決方法が有効である。  こうした事情を受けて、20世紀末は環境の時代となった。すべからく自然は美しく、気高く、人間の野蛮な文明などはおよびもつかないほどの自浄システムを備えている。自然に勝るものはなく、愚かな人間どもは自然の前にひれ伏すべし。こうした風潮は21世紀の現在にいたるまで脈々と受け継がれている。エコ商品、SEALSと名乗るクジラ偏愛集団、温暖化に関する宗教じみた主張。  自然は絶対的に正しい。どうもそういうことらしい。      *     *     *  なぜかくも自然は神聖視されているのだろうか。  その原因の一端は高度情報化社会にありそうだ。  情報には一次情報とそれ以降のもの(二次、三次……n次情報)が存在する。一次情報はなんらかの現象を観察したり実験したりした人間そのものが発信する情報のことで、これは(観察なり実験なりに再現性があれば)信憑性が高い。例を挙げよう。  ある動物行動学者が〈動物は同じ種同士では互いに殺し合わない〉という観察結果を発表したとしよう。これが一次情報である。彼はアフリカのサバンナなりジャングルなりに潜入し、一定期間動物たちの行動を観察した結果、そう結論した。さてこの見解を確認するのは骨が折れる。誰もが何か月も異国の地でのらくらできるほど裕福ではない。それに他人の研究結果を追試するだけの仕事は、科学界では評価されづらいという事情もあるだろう。  その結果、上記の観察結果はろくに確かめられもせずにほかの学者なり自然保護団体なりに引用されうる。これが二次情報である。発信者の情報をそのまま引用しているので二次というわけだ。科学を飯の種にしている学者がいい加減な論文を書くはずがないという先入観と、自分でことの次第を確認するのは面倒だという経済的事情。  二次的な引用に問題があると言っているわけではもちろんない。精緻な理論や論文はむしろ、引用回数がステータスになるほどである。問題はそうでない論文――すなわちずさんな実験や観察によって書かれた、著者の思い込みのようなしろものが厳然と存在するという点である。  情報革命以前ならそれも対した問題ではなかった。科学論文やそれらを噛み砕いたメディアの発信は受け取り手も限られており、われわれ消費者のなかでも興味のある向きしか汚染されなかったからだ。ひるがえって現代、情報は全世界的なデータベースであるネットに集積されており、われわれは数語を入力するだけでそれらに触れることができる。その際に得られる情報が誤った一次情報からの親引き、孫引き、曾孫引きにあふれているのは容易に想像がつく。ネットは計り知れないほどの情報の宝庫であると同時に、大量のジャンクを溜め込んだ空前のごみ溜めでもあるのだ。      *     *     *  先ほど触れた〈動物は同じ種同士では互いに殺し合わない〉という見解をどう考えるか。  まず断っておくと、これはまったくの誤りである。確かにオオカミやヘラジカなどの動物は、オス同士が闘争を始めても血みどろの殺し合いにまで発展するケースはまれだ。劣勢のオオカミは形勢不利と見るや、腹を上にして転がって恭順の意を表明する。優位なほうはもうそれ以上攻撃を加えようとはせず、めでたく停戦が成立する。  いっぽうアシカのオス同士の闘争はしばしば熾烈を極める。  優勢劣勢にかかわらず個体同士は死力を尽くして戦い抜き、負けた個体は瀕死の重傷を負う。勝利した個体ですら無事ではすまないケースが多い。歴戦の勝者はたいてい古傷を大量に引きずったぼろぼろの死に体である。  彼らはどうやって闘争のルールを決めているのだろうか。オオカミは種内であらかじめ厳格な掟を定めているのだろうか。オオカミの警視総監のような役回りの個体(および警察官に相当する群れ)が存在し、彼らが「汝、殺すなかれ」という法律を制定しているのだろうか。いっぽうアシカは無政府主義者の集団で、どんなケンカもやりたい放題、個体は好き勝手に生きられるのだろうか。  むろんそうではない。単に自然は無駄を嫌うのである。  読者は人間の工学的なデザインに不満を持ったことはないだろうか。歳を重ねるごとに急上昇するがんの罹患リスク、腰を多めに曲げているだけで罹る椎間板ヘルニア、出産で命を落とす妊婦、自閉症などの脳疾患、街の路地裏に潜むサイコパス。創造論者は神が人間を造りたもうたとのたまうけれども、その割にはあまりにも欠陥が目立ちはしまいか? 神とはでたらめに製図を引く三流デザイナーなのか?  神が存在するかどうかはここでは立ち入らない(わたしは無神論者なので確信を持っていないと断言するが)。人間は神に作られたのではなく、自然に作られたのだという事実を主張したいだけだ。      *     *     *  進化とは漸進的で、いき当たりばったりのやっつけ仕事である。  最初の生物であるコモノートがどんなしろものだったかは意見がわかれるが、自身をなんらかの方法で複製する能力はあったはずである。そうでなければ自分に似た次世代を連綿と生産していけない。コモノートはDNAかRNAを利用し、自身を複製して数を増やしていた。1980年代に触媒と複製を兼ねるRNA(=リボザイム)が発見されたことにより、一般的にはRNAが先だったのではないかという意見が優勢である(=RNAワールド仮説)。  さて簡便のため、ここではコモノートを海中に発生した単細胞生物であるとしよう。彼の系譜は順調に数を増やしていたが、あるとき大異変が起こる。隕石の飛来による太陽光の遮断により、海の温度が低下したのである。コモノートの子孫たちは環境の激変についていけず、ほとんどが死滅した。だがそのなかでごく少数、遺伝子の突然変異によって低温下に強い個体がいたとしよう。  この個体は仲間たちが凍え死んでいくのを尻目に、ゆうゆうと環境中に拡散できるだろう。また低温に強い遺伝子は現環境で有利なので、自然淘汰によって優遇される。その結果〈低温に適応した単細胞生物〉という別種が誕生したことになる。現環境に適応した個体が生き残り、そうでない個体は死ぬ。それが自然の掟であり、その結果徐々に生物が分岐していくのが進化なのである。  しかし上記のような流れだと、生物はまったくの偶然によって進化してきたことになる。単細胞生物が偶然人間にまで進化するはずがない、そんなのはクズ鉄置き場に台風が襲来した翌日、ボーイング747ができあがっているのと同じだ! という主張は創造論者畑からよくなされる(驚くべきことに天文学畑からなされたこともある)。これは進化を突き詰めて考えていない浅はかな批判であろう。  最初に目を持った生物を想像してみてほしい。彼はわれわれほどはっきり世界を認識できはしないものの、おぼろげながら光の明暗程度なら感知できる。明るいほうは海の浅海域であり、そこには光合成に必要なエネルギーが満ちている。暗いほうは海の深海域であり、外敵の少ない避難所となる。最初期の目がわれわれの持つ高性能製品とは比較にならないにしても、やはり利得はあったはずである。そうでなければ目が進化するはずがないではないか。目を維持する便益がコストを上回ったからこそ、それは自然淘汰によって優遇されたのである。  いったん目が発生してしまえば、その便益は計り知れなかったのであろう。生物は独立に何度も目を〈発見〉しているし、こんにち視覚に頼るわれわれのような種の目は色まで見分けられるほどゴージャスになった。目は明らかに時代とともに改善されている。これは進化が主に偶然によって推進されるという先述の理論と矛盾しない。  遺伝子の突然変異は必ずしも有利なほうへばかり起こるわけではない。たとえば目をコードする遺伝子のうち、TTCというコドンがTTGにポイント・ミューテーションしたとしよう。すると作られるタンパク質が変わり、ひいては目の機能そのものに変化が起きるだろう。すでに存在する完成品に手を加えても、たいていは蛇足になる。読者は手持ちの電子レンジを解体して配線をいじり、さらなる機能の改善を施す自信があるだろうか? まともに使えなくなるのが落ちであろう。  突然変異もこれとまったく同様に、ランダムな変異はおおむね有害な結果を残す。せっかく多少なりとも見えていた視力が減退したり、目そのものが欠損してしまうかもしれない。そのような不運な個体は在来種と比べて不利なので、生き残って子孫を残すのは難しい。自然淘汰は低能には非常に厳しく当たる。情状酌量もお目こぼしもない。劣った個体は容赦なく淘汰されていく。その結果、どうなるのか?  時間とともに生物は、より進歩しているかのように進化していくだろう。なぜなら有害な突然変異は自然淘汰によって排除されているからだ。現代に存在する生物はすべて、過酷な時代を生き抜いてきたスーパー遺伝子を持っているといえよう。十分な時間――何十億年というオーダー――さえあれば、単細胞生物から人間が鋳造されうるのだ。      *     *     *  これにてわれわれ人類ががんになったりヘルニアを患ったりする理由が理解できる。人間とはしょせん、目先の利益だけを追求する自然淘汰によって製造された欠陥品なのである。  類人猿がサバンナで二足歩行することの有利さを自然淘汰が優遇したとき、類人猿は体重を一手に引き受けるほど頑丈な椎間板を持っていなかった。標準よりもろい椎間板を持つ個体がヘルニアを患うコストよりも二足歩行の便益がはるかに勝っていたので、その遺伝子は以後も引き継がれていった。人間が肩こりや転倒やヘルニアのリスクを負ってまで二本足で歩くのはそうした理由からである。 ※二足歩行には莫大な利点がある。両手がフリーになるので道具を使用できるし、より遠くを見ることができるので捕食者の発見が早くなるなど。  オオカミとアシカの話に戻ろう。なぜオオカミは争いを平和的に解決し、アシカはそうでないのか? それは繁殖戦略のちがいで説明できる。オオカミは比較的一夫一妻に近い種なので、メスをめぐった闘争は穏やかに推移する。争いで負けてもまだほかのメスをものにするチャンスは十分ある。たった1度のチャンスに命を賭けるのはばかげているので、オオカミのオスはあっさり負けを認めるわけだ。そのように遺伝的にプログラムされているのである。  アシカは対照的に一夫多妻のハーレム戦略である。勝利したオスがメスを総取りするのである。こうなるとオスはもう、なりふりかまっていられない。持てる力のすべてを傾注し、ハーレムを独占しようとする。負けたが最後、みじめな人生が待っているのだから(実際にアシカでは交尾できる個体はごく少数に限られている)。結果的に争いは熾烈を極め、しばしば生死をわかつところまで発展する。  すべては便益と費用で説明できる。自然はべつに美しくも気高くもない。自然淘汰はつねに個体の利益のみを重視させる、利潤追求マシンなのだ。ここから〈自然主義の誤謬〉という概念が導き出されるのはまったく理にかなったことだろう。生態系とはおのおのの個体が利益を最大化するよう進化した、利己主義者たちの饗宴の場なのである。  読者は資本主義を気高く誤謬のないシステムだと思うだろうか? もちろん共産主義に比べればはるかに効率的なシステムではあるし、おそらくこれに代わる商習慣は存在しないであろう。しかしだからといって利潤を追求する資本主義が美しいとか保護すべき至高の価値を持つとかいうことにはならない。このシステムがうまくいっているのはまさにその特性そのもの――参加しているプレイヤーが自己の利益を最大化するからである。アダム・スミスが言っているように、個人が利己的にふるまえば市場の〈見えざる手〉が価格を通して消費者に情報を伝達し、おのずから秩序が生まれるのだ。  生物が自己の利益を最大化するよう進化してきたのなら、上述した資本主義の理論がそのまま当てはめられる。生態系は調和を保っているように見える。生産者-捕食者-分解者の構図は見事だし、植物が二酸化炭素を消費して酸素を放出するのは奇跡のようだ。しかしそうではない。  生産者(植物)が生まれたのは単に日光を利用するのがその時点でもっとも最適な戦略だったからだ。捕食者(動物)は植物を食べて手っ取り早く糖を補給するのが楽だったのだ。分解者(細菌類)にとってはそこらに転がっている死体から養分を得るのがもっともコストのかからないやりかただった。  こんにちわれわれは植物の放出する酸素を後生ありがたがって吸っているけれども、連中が進化する前は地球上に酸素を必要とする生物はいなかった。彼らは嫌気性生物と呼ばれ、酸素に触れれば即お陀仏となる。植物が酸素という毒を地球にまき散らし始めたころ、彼らは酸素の届かない場所に逃げるしかなかった。それは沼の底であったり人間の腸内であったりする。現在の環境は単に、酸素という毒を利用することに成功した子孫が繁栄している世界にすぎない。      *     *     *  以上の議論から、わたしは読者が〈自然主義の誤謬〉のなんたるかを理解したものと信じる。  自然は正しいどころかいき当たりばったりで乱脈経営をやらかす、三流以下の経営者であることがわかった。自然淘汰は未来予知などできない。神は進化にまったく関与していないのだ。そうであるならば、現代の自然に対する異常なまでの崇拝は常軌を逸しているとしかいいようがない。  もちろん自然には見習うべき点はある。だが人びとが目を背けたくなるような負の部分は厳然と存在する。鳥類はおしどり夫婦なんかではない。表向き一夫一妻を貫いているように見えるけれども、生まれてくる雛の30%ほどはべつのオスの子どもである。あらゆる種でレイプはさかんに行われている。自然が絶対的に正しいとのたまうならば、こうした負の側面にも向き合う必要がある。見えないふりをするのはフェアではない。  もし自然の負の側面をも肯定するならば、不倫は自然が行っていることなので正しく、レイプですら正当化されてしまう。これは遺伝子決定論を嫌う根拠にもなっているようだ。リベラル派やフェミニストはこう主張する。不倫やレイプが遺伝子で決定されているはずはない、それは人類の文明や男性至上社会が生み出した病弊なのだ、と。  不倫やレイプが遺伝的に刷り込まれているとして、だからなんだというのだ? われわれは即座にそうした行為に恩赦を与えて、明日から強姦を合法にしたり、不貞を離婚事由から外したりするのだろうか? なぜ遺伝子が関与するとその特性は避けられないものだということになるのか? 明らかに自然に対する異常なまでの崇拝が原因である。自然はべつに絶対的な正しさなど持ち合わせていない。不倫やレイプが自然のなせる業だからといって、その衝動にしたがう必要はないし、そうするべきでもない。  生態系とはそのときどきの環境によって、ダイナミックに変動していくものである。過去にも温暖化や寒冷化、大陸移動による地理の断絶、湖のpH値の変化など、おびただしい変動があった。ある生物は生き残り、ある生物は絶滅していった。これは避けられない事象なのであり、そもそも介入すべき事象ですらない。環境保護という概念そのものが的外れなのである。いままで存在した生物の99%は絶滅している。その陰鬱なリストにいまさら1種か2種が加わったとして、なんだというのだろう。      *     *     *  そしていま、われわれは環境保護の名のもとに空前絶後の金を投入している。港では検疫のために植物を輸入する際、毎回必ず検査が行われる。数ミリにも満たないナメクジがくっついているだけで不合格となり、燻蒸を強制される。樹木を保護するため、いっさい開発を行えない国有林が(ただでさえ狭い日本で)広大な面積を占めている。温暖化に対処するため、ヨーロッパではヒステリー寸前の規制が敷かれつつある。  わたしは環境破壊を促進し、人類のやりたいようにやれと言っているわけではない。費用と便益を考えろと主張したいだけなのだ。率直に言って守る価値のないようなものに、人類は多大な出費を割いている。それも差別意識丸出しでだ。絶滅寸前のゴリラは人類に近いので保護するけれども、日々絶滅しているであろう名もなき昆虫や細菌は歯牙にもかけない。これは環境保護ではない。単に自分たちが残したいと思う生物をひいきしているだけだ。  そんな自分勝手なわがままに費やされる資本を、少しでも発展途上国の支援に振り向ければどれだけの成果を生み出せるだろうか? 外来種のナメクジがパキラにくっついているのを見つけるのに金を使うのと、アフリカの子どもたちに食料を送るのとどちらが有益だろうか? もはや議論するまでもない問題であろう。  1960年代、中国では毛沢東の主導で文化大革命というおぞましい社会実験が行われた。共産主義思想を軸にしたさまざまな愚行が蔓延したが、そのなかに食料を大規模に輸出するというものがあった。問題だったのは国内の農民が飢餓に苦しんでいるのをまったく無視して輸出が実行されたという点である。文化大革命による死者は推定6,000万人にものぼると言われている。  食料の輸出とはまず国内の需要を満たしたのちに実施するものであって、国民が餓死している最中に行うものでは決してない。物事には順序があるのだ。この構図は現代の環境保護にも当てはまるのではないだろうか。有効利用できる資本を人命救済に回さず、それより明らかに重要性の劣る環境に莫大なドルを支出する……。  われわれはもしかしたら、世界的な文化大革命を実行しているのかもしれない。

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