
中学二年の冬、私は帰り道に市営温室へ寄るのが習慣だった。
暖房のきいた建物で、池の魚を眺めてから帰る。入場料はいらないし、受付の人も何も言わない。花には興味がなかった。
ある日、手袋を片方なくしたことに気づいて、閉館の放送が流れたあとも池のそばを探していた。
「もう閉めるよ」
声をかけてきたのは、剪定ばさみを持った職員の女性だった。白い作業着の袖に土がついている。
「すみません、手袋が」
「明日でもいいでしょう。ほら、出口まで行きなさい」
彼女は私の後ろを歩いてきた。大きなばさみが、歩くたびに軽く鳴る。
気まずくなって、私は池の魚の話をした。返事はなかった。
池の向こう側にある石のベンチの下で、赤い毛糸が水面に垂れているのが見えた。誰かが落としたマフラーだと思った。
女性は立ち止まり、ばさみを構えた。
「そこ、近づかないで」
チョキン、と乾いた音がした。
毛糸は水面から消えた。ベンチの下にも、池の中にも何もない。
「今、何を切ったんですか」
「伸びすぎたもの」
彼女はそう言って、私を出口へ急かした。
翌日、手袋を見つけた私は、閉館前に温室へ行った。池のそばのベンチに、赤い毛糸のマフラーが置いてあったからだ。昨日のものと同じだと思った。
池を覗くと、水の中に子供が立っていた。
顔はよく見えない。濡れた髪が額に貼りつき、首には赤い毛糸が巻きついている。水は膝ほどの深さしかないのに、その子は苦しそうに手を伸ばしていた。
「助けて」
私は声を出せなかった。
背後で、ばさみが鳴った。
女性職員は池の縁にしゃがみ、赤い毛糸を一度だけ切った。子供は水面に沈まず、霧のようにほどけて消えた。
「毎日、同じ時刻に来るの」
彼女は何事もなかったように、池の縁を拭き始めた。
その日の帰り、出口で「明日も来るの?」と聞かれ、私は反射的に「はい」と答えた。
次の日から、温室には行かなかった。
それでも、しばらくは毎日、帰宅すると母が玄関で聞いた。
「今日も温室に寄ったの?」
母は私が通っていたことを知らない。聞かれるたび、私は「寄ってない」と答えた。
最後の日、母は少し困った顔で言った。
「じゃあ、どうして毎日、靴が濡れてるの?」
後日談:
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