
長編
R・カーソンの亡霊 農業編
しもやん 2020年2月3日
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21世紀は飽食の時代であるという。
確かにわれわれは日々、自分で注文した料理を半分も食べずに残す。結婚式の二次会で会話と飲酒に夢中になるあまり、コース料理がほとんど手をつけられないまま下げられていく。
いっぽう致命的に食料の足りていない地域が厳然と存在するのも事実である。骨と皮だけのアフリカ難民たち、1日3ドル以下の予算で生活する中国奥地の貧農たち。
われわれは彼らを助けたいと心から願っているし、実際に寄付をしさえする。にもかかわらず依然として飢えに苦しむ人びとは後を絶たない。いち個人が高性能の端末を保有し、世界中誰とでもつながれる21世紀になってもなお、こんな状況がはびこっている。
われわれにできることはあるのだろうか。
* * *
マルサスの〈人口論〉が著されたとき、人びとは恐怖に打ち震えた。
このままのペースで人間が増えていけば遠からず、全地球的な飢餓が訪れるのだという。マルサスの主張は次の通りである。人口が幾何級数的(2のn乗を指す。nの数が増えるほど爆発的に数字は増す)に増えるのに対し、農業は土地などの制約から、等差数列的にしか増えない。したがって食糧危機が訪れる、という論法である。
確かに人口は爆発的に増えてはいる。この2世紀ほどで世界の人口は10億程度から一挙に60億人にまで増えた。マルサスのしたり顔が見えるようだ。しかし彼は資本主義の力を考慮に入れていなかった。
資本主義は需要を満たすよう人びとに圧力をかける。食料の増産が利益になることを喝破した一部の人びとや純然たる公共心から増産の研究をしていた研究者らが結託し、この問題に決着をつけた。1940~60年代に投入された改良品種、化学肥料が著しい収穫量の向上を実現し、多くの人びとが飢えから解放されたのである。これは〈緑の革命〉として名高い。
* * *
進化論には生存戦略という概念がある。
一般的に魚類は数万単位の卵を放出し、数で勝負する。海は多数の捕食者がひしめく魔境なので、少数の子孫を産んでいるようでは次世代へ遺伝子を引き継ぐのは難しい。そこで大量の卵を産生し、確率に頼るわけだ。1万匹の子どもすべてが全滅する可能性は低いので、つねにほんの少数は生き残って次世代を担っていくだろう。これは生殖のr戦略と呼ばれている。
反対に大量の卵を産生するコストを凝縮し、ほぼ完熟した状態で少数の子孫を産生するという手もある。
生まれた直後から子どもがある程度自力で活動でき、かつ親の手厚い保護があるのなら、数匹程度の産生で十分間に合うだろう。3匹のうち2匹でも生き延びれば、当面のところ全体の総数は差し引きゼロになる。これは生殖のk戦略と呼ばれている。
人類はいうまでもなくk戦略を採用している。
その数はたったの1人とたいへん少ない。そうなると親としてはなにがなんでも子どもを生き延びさせなければならない。ことに人類は抱卵期間が9か月と長く、子ども自体も未熟なまま生まれてくるため始末が悪い(人類は脳を極度に発達させた種なので、完熟した状態だと産道を抜けられない。そのため例外的にk戦略なのにもかかわらず子どもが未熟なのだ)。
k戦略選択者は上記のような理由で、そもそも多くの子孫を望むべきではない。そのような生物学的構造になっていない。
われわれ同様1夫婦1匹のゴリラやチンパンジーが、生涯に8人もの子どもを持つだろうか? 彼らだってできればそうしたいのだろうが、環境が許さない。それだけの個体数を維持する資源がないのだ。
このように尋常な自然淘汰が働いている環境なら、ある特定の種が過剰に増えたりはしない。岐阜県の北部では定期的に毛虫が大発生するけれども、放っておけば自然に鎮静化する。十分にいきわたるだけの食料がないので、大半の毛虫が餓死するためだ。
アフリカで起こっているのは突き詰めれば、上記のようなことである。
存在する食料に比して、生まれてくる子どもが多すぎるのだ。
もしくは生まれてくる子どもに比して、食料が少なすぎるともいえるだろう。
* * *
1960年代初頭、衝撃的な著書が鳴り物入りで出版された。その名も〈沈黙の春〉。
著書の名前はレイチェル・カーソン。言わずと知れた環境保護論の先駆者である。DDTなどの有害な農薬がまき散らされたせいで鳥たちが全滅し、春が訪れてもカッコウもうぐいすも鳴かない。静まり返った不気味な情景を描写した〈沈黙の春〉は、英語圏だけでなくあらゆる国で翻訳され、世界的ベストセラ―となった。
同時に彼女は環境保護論者たちの精神的支柱、伝説的人物に祭り上げられるようになったのである。日本でも彼女の人気は根強く、ほとんど神格化されているといってよい。
〈沈黙の春〉は先に触れた〈緑の革命〉を徹底的に批判した。
有毒な化学肥料でどれだけの生態系が破壊されたかを克明に記述し、金儲けのために食糧増産を企図する悪徳企業や、向う見ずな政策を立案して頭上から毒の粉をばらまく合衆国政府を糾弾した。
この論調は次世代の環境保護論者にも受け継がれていく。
われわれは無条件で農薬は悪いと判断するし、鳴り物入りで登場した遺伝子組み換え作物に至っては、なにか途方もない陰謀が隠された悪魔の食べものであるかのように嫌悪する。
唯一安心して口に入れられるのは有機農法で育てられた無垢な野菜のみ。そういうことらしい。
* * *
環境保護論者がマントラのようにくり返す〈伝統的な農業〉という言葉は矛盾している。
農業が始まったのはたったの1万年ほど前からである。十分むかしのように感じるけれども、人類がチンパンジーとの共通祖先から分岐したのがおよそ600万年前であるから、日の浅い事業であることは確かである。
石器は何十万年もの歴史を持つが、だからといって包丁の代わりに石刃を奨励するのはばかげている。なぜ農業に限って懐古趣味が幅を利かせるのだろうか。よりよい栽培方法を採用することのなにがいけないのだろうか。
農薬は百歩譲って許そう。だが遺伝子組み換えだけは容認できない。
そう思っている人は多い。しかしよく考えてみてほしい。われわれは伝統的な農業とやらでも品種改良を施し、野菜を食べやすいよう改造してきたのではなかったか?
野生のキャベツやトウモロコシがどんなものかご存じだろうか。栽培されている現行品種とはまったく似ても似つかないしろものである。ことにトウモロコシの変貌はすさまじい。品種改良は結局のところ、遺伝子組み換えである。現代のバイオテクノロジーはそれを実験室で瞬時に行えるだけのことだ。
遺伝子組み換え作物は有用な特徴を持っている。必須栄養素のビタミンを多量に含有したゴールデンライス、対虫性のある小麦や大豆。現在までのところ、遺伝子組み換え作物で深刻な健康被害が出たという研究結果は存在しない(環境保護論者が捏造したものを除いてであるが)。
反対に有機栽培された〈無農薬野菜〉での健康被害は報告されている。
この事実に驚くのは、野菜がおとなしく食べられるだけの無力な存在だという先入観があるからだ。野菜は動けないぶん、捕食者の対象にされやすい。その対策として彼らは身の危険を感じると、内部で毒物を生成する。
じゃがいもの芽がよい例である。人類用に改造された作物ですらいまだに毒性を除去しきれていないことに留意してほしい。
虫食いだらけの野菜はよいものだとされている。けれども捕食者を寄せつけないよう毒を産生しているであろう有機野菜が、適度な量の農薬で育てられた慣行作物や遺伝子組み換え作物よりも本当に安全かどうかは、定かではない。
* * *
一般的な俗説とは対照的に、農薬や遺伝子組み換えが危険であるどころかほとんど無害であることがわかった。
もしそうならば、われわれは無意味な規制を敷いているのではないだろうか。
日本では遺伝子組み換え作物の輸入が厳重に規制されている。許されている作物でも表示義務がある。
環境問題に過敏なヨーロッパも似たような厳しい規制を敷いている。
遺伝子組み換え作物の主要な産生国はアメリカであるが、有力な輸出先である先進国が軒並み規制を敷いてしまえば当然、商品価値は下がる。面積に比して生産力の劣る従来農法に切り替える農家も出てくるだろう。いきつく先は食料の減産である。
飽食の時代を迎えて久しい先進国はそれでも問題ないかもしれない。多少野菜の値段が上がるだけで、国民はまた物価が上がったと文句を垂れているだけですむ(それはまぎれもなく自分たちのせいなのだが)。
では後進国はどうなるのか。安く大量に生産できる野菜が届かなくなり、ただでさえ慢性的な飢餓がはびこっているアフリカやアジア諸国はさらなる窮地に立たされる。
* * *
確かに後進国はもっと出生率を下げるべきだ。養い切れる以上の子どもを産むべきではない。
とはいえ生殖は生物の根源的な欲求である。それは原則、人びとの選択に任されるべき領域である。
彼らももう少し裕福になって教育サービスがいきわたれば、k戦略のなんたるかを理解するだろう。
だからといって生まれてきた子どもに罪はない。親が無節操だから子どもは飢えて死んでもよいということにはならない。彼らのなかに将来のアインシュタインやハイゼンベルクがいないと誰に断言できるだろうか。
食料はこれからもっと必要になる。十分に安く、大量に供給するためにはどうしても二度めの〈緑の革命〉が必要なのだ。
それは技術的に十分確立されている。にもかかわらず、世界には飢餓がはびこっている。
われわれはR・カーソン女史を恨むべきなのだろうか。
そうではない。
半世紀も前の彼女の主張を鵜呑みにするどころか拡大解釈すらやってのけ、科学的に無根拠な危険を作り出して騒ぎ立てる人びと。彼らこそがアフリカの子どもたちを殺しているのだ。
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