
仕事で山の上の天文台に呼ばれたのは、二月のことだった。
私は四十を過ぎた音響技師で、施設の古い放送設備を調べるため、管理人の青年と一緒に宿泊棟へ入った。窓の外は昼間から真っ白で、吹きつける雪が建物の輪郭を消していた。
泊まる部屋は二階の端だった。管理人が鍵を渡すとき、札に書かれた「二〇八」の上に、細いペンで「二〇六」と書き足してあった。
「部屋の番号、変わったんですか」
「昔の表示が残ってるだけです。気にしないでください」
その言い方が少し気になったが、仕事道具を運び込むので精いっぱいだった。
夜、風の音が強くなった。ベッドに入ってしばらくすると、壁の向こうから、コン、と音がした。
間を置いて、もう一度。
さらに、三度目。
配管が鳴ったのだと思った。けれど、音は部屋の壁ではなく、ベッドの頭側から聞こえる。耳を澄ませると、今度は壁の内側で、何かがゆっくり擦れるような音がした。
私は眠れなかった。怖いというより、そこに誰かがいる前提で、音を聞き分けてしまう。朝まで目を閉じても、意識はずっと壁に向いていた。
翌日、管理人に話すと、彼は「この棟は古いので、風でいろいろ鳴ります」とだけ答えた。私はその場で問い詰める気になれず、帰宅してから天文台の沿革を調べた。
二十年以上前、冬の観測中に宿泊棟で火災があり、夜勤の職員が一人亡くなっていた。記事には、火元は二〇六号室とあった。
そこで初めて、あの鍵札の書き足しを思い出した。
気になって施設の古い図面を探すと、現在の二〇八号室の壁の奥には、かつて二〇六号室があった。改修で部屋をつぶし、その上から壁を作ったらしい。火災後の記録には、職員が「壁を三度叩いて助けを求めた」と証言した、と短く書かれていた。
それで、あの音の理由はわかった。
少なくとも、三度目までは。
先月、別の現場の宿に泊まったとき、夜中に壁から三度ノックがした。そこには火事も事故もなかった。念のため、翌朝フロントで部屋番号を確かめた。
「お客様は二〇八号室でしたよ」
その宿に二〇八号室はなかった。
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