
山の上にある小さな天文台で、管理人をしていたことがある。
研究施設としてはとっくに閉鎖されていて、今は市の資料を保管する建物だった。私は宿直室に寝泊まりしながら、週に数回、測量技師や役所の人を迎えていた。
赴任したのは一月。乾いた晴天が続く時期で、夜は冷えるが、雪が積もるほどではなかった。
最初に妙だと思ったのは、備品点検の朝だった。観測室にあった古い木の椅子が、一脚だけ宿直室の壁際に置かれている。重いので、私が運んだはずもない。
誰かが片づけたのだろうと思い、元の場所に戻した。翌朝にはまた壁際にあった。三度目からは、戻すのをやめた。
その頃から、泊まりに来た人が妙なことを言うようになった。
「夜中、誰かが椅子に座ってたよ」
全員が同じ場所を指した。壁際の椅子だ。けれど、誰も顔を見ていない。暗がりに人の形があった、と言うだけだった。
私はその椅子を倉庫にしまった。来客には何も話していない。それでも次に泊まった技師は、朝食の席で「昨夜の人、今日は来なかったね」と言った。
その人は、倉庫の場所さえ知らなかった。
一方で、私は何も見なかった。夜中に物音がしても、暖房の配管だろうと決めて、湯を飲んで寝た。怖い話を聞かされるたびに、管理人は寝不足が一番困る、と笑っていた。
ある朝、古い観測記録を整理していて、宿直室の備品表に目が留まった。建物ができた当初の記録で、椅子の数は「宿直室三脚」とある。今の部屋にあるのは、私が持ち込んだ折り畳み椅子を含めても二脚だけだ。
気になって資料を調べると、昔ここで働いていた女性職員が、吹雪の夜に行方不明になっていた。捜索は打ち切られ、記録には「宿直室を最後に確認」とだけ残っている。遺体は見つかっていない。
次の来客は、七十を過ぎた技師だった。朝、彼は椅子を見て「今日はずいぶん近い」と言った。
その晩、私は初めて夜中に目を覚ました。暖房が止まり、部屋が冷え切っていた。壁際の椅子は空だった。
代わりに、机の上の観測記録が開いていた。最後のページに、見覚えのない一行が鉛筆で書かれている。
『今夜は、管理人が座っている』
振り返れなかった。椅子が床をこする音が、背後から一度だけ聞こえた。
翌朝、部屋には誰もいなかった。記録の文字も消えていた。私はその日、辞める理由を探し始めた。
退職前に備品を数えると、椅子は二脚しかなかった。あの古い椅子は、倉庫にも観測室にも見つからない。
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