
長編
楽しく安全な登山を
しもやん 2020年10月3日
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山には道標というものがある。
それには〈白船峠〉や〈御池岳〉などの地名が表記されており、山なり峠なりがどの道の先にあるのかを指し示してくれる。登山地図は現場の道標にリンクするかたちで描かれていることが多く、そういう意味でも登山者にとってはマスト・アイテムに近い非常に頼れる存在といえるだろう。
とはいえ道標にもピンからキリまでランクがあるのもまた確かである。登山道を整備しているふもとの観光協会が作ったものは力が入っていて情報も正確であるが、もの好きな個人が自分用に作ったようなものは指し示している方角も怪しく、情報も信憑性があるとは言いがたい。
登山は最終的におのれの力量が問われるというのはこういう意味なのだ。ペナントや道標に頼り切っていると思わぬ道迷いをしでかすおそれがある。たとえそれらが善意で作られたのだとしても。
* * *
これは数年前、わたしが鈴鹿山脈のバリエーションルートである深部に分け入り始めたころの話である。
鈴鹿山脈とは三重県と滋賀県の県境に位置する、1,000メートル前後の山々で構成された山脈だ。標高は低いけれども南北に長く、主脈以外に何本も支脈が並走するなかなか懐の深い山岳地帯である。
鈴鹿中部、すなわち朝明渓谷~宮妻峡までのエリアはことに人気で、毎年大勢の登山者が関西圏から訪れる。このあたりは道も道標もペナントも完備されていて、誰でも気軽に山歩きが楽しめるのだが、そんな中部でも主脈を乗り越えて西へ少し進めばそれだけで、訪れる者とてない鈴鹿深部と呼ばれる人跡未踏のフィールドに辿りつく。
鈴鹿深部で頼りになるのは手作りの道標と、木々に巻かれた色鮮やかなペナントのみ。あとは自分で地形を読み、現在地をつねに把握し続けていなければならない。整備されたエリアのようにがむしゃらに歩いていれば、遠からず道迷いに陥って遭難の憂き目に遭う。玄人筋が好むフィールドとして一部のマニアのあいだで歩かれている。それが鈴鹿深部である。
* * *
その日わたしは朝寝坊をやらかし、登山基地の朝明渓谷に着いたのは午前10時すぎであった。晩秋は陽が落ちるのも早く、この時間から歩いていては確実に日没してしまうけれども、ものぐさな性格のわたしはいつも夜間ハイクでお茶を濁していた。今日もそうなりそうだと諦観しつつも、10:15に発ち、中峠へ詰め上げたのが11:00ジャスト。それから紅葉の美しい神崎川流域へまずは降りていく。この時点で登山者は激減し、目に入るのは単独の中年男性が一人いる程度だった。
神崎川を南下して小峠出合には12:00前に着き、V字に切れ込んだ沢道へシフト。小峠からはクラシ南尾根を経由してイブネ台地へ至った。気持ちのよい秋晴れの下、苔むす広大なイブネをたっぷり満喫し、13:00すぐにやっと昼食。イブネは〈鈴鹿の秘境〉と呼ばれるだけあってかなりの奥地にあるのだが、それでも雄大な景色を求めてやってくる登山者がちらほらいた。
山では見知らぬ他人でもあいさつするのが常識である。気が向けばそのまま山談義に花を咲かせることもしばしばある。ましてイブネにまでくるような登山者はマニアであることが多く、自然会話も弾む。わたしは六十代くらいのベテラン山屋としばし、歓談を楽しんだ。
なんでも神崎川沿いのお金出合から深部に分け入り、お金峠→作ノ峰→高岩→ワサビ峠→クラシジャンダルム→イブネというマニアックなルートできた由。彼はストーブで沸かしたコーヒー片手に長々と嘆息してみせた。
「近ごろはこのあたりもにぎやかになってきちゃったね、どうも」
わたしは水を向けてみた。「むかしはちがったんですか」
「まだ鈴鹿スカイラインが通されてなかったころなんか、イブネにいくのはごく少数のマニアだけだったもんさ。御在所あたりのふもとから杉峠あたりで一泊、イブネを堪能して深部の稜線を歩き通してお金明神に詣でるだろ、沢に降りて神崎川流域でまた一泊。三日めでようやく下界に戻ってこられる。体力と根気のいる行程だった。それがいまじゃこのありさまだ」
老人は身振りで思い思いに歓談する人びとを指し示した。
「こいつらはどうせ武平峠あたりからずるをやらかして登ってきた連中だろ。みんな楽をすることしか考えてない。それもこれもお節介なやつが勝手に設置した道標がいかん。あんなのがあるから気軽に誰でも深部にこられるようになっちまったんだ」
老人はひとしきり不平を述べたあと、見知らぬ他人に愚痴をこぼしたことを詫び、道具を片づけて下山していった。帰りはコクイ谷方面から降りるのだという。
わたしはちょうど彼が辿ってきたルートを使って北上し、お金出合へ降り、羽鳥峰峠を経由して朝明渓谷へ戻る計画だった。昼食のごみを片づけ、重いザックを背負ってクラシ北尾根へ分け入る。14:00ジャスト出発。
クラシ北尾根は鈴鹿のバリエーションルートである。バリエーションルートには登山地図に記載のない上級者用のルートという意味合いがあり、当然道標のたぐいはほとんど見られない。あったとしても有志による手作りの粗末なものが心もとない間隔で設置してある程度で、それもあればラッキーというくらいの頻度である。通常ルートなら密に巻いてあるペナントも数十メートル間隔でしか見られず、支尾根に迷い込めばとり返しのつかない道迷いに発展する。
わたしは何度も地図を見て地形を頭に叩き込み、ルートが通してあると思われる尾根芯からはずれないよう踏み跡を律儀にトレースして歩いた。小規模なアップダウンをくり返しながら、徐々に標高を下げていく。
難所とされるクラシジャンダルムを14:30ごろ危なげなくクリアし、ワサビ峠と思われる顕著なコルにどんぴしゃりで降りてきたときには、安堵のあまりその場にくずおれそうになった。ネットの記事で予習した限りでは、そのまま北上すればお金明神へ、東進すればオゾ谷を経由して神崎川へ降りられるはずだ。そして上記の道筋を概説した手作りの道標があるとも。
わたしは慎重に何度も予習していたのでここがワサビ峠であるとほぼ確信していたけれども、それでも道標で確認できるに越したことはない。かろうじて電波が入ったので再度記事を閲覧する。記録によれば峠にある大木に針金で道標が括りつけてあるはずだ。写真に写っている大木はすぐに見つかった。けれども道標がない。なにかが長いあいだ設置してあったような跡が刻まれていたので、目の前の木でまちがいない。記事は一年ほど前のものだったが、そのあいだに風雨にさらされてはずれてしまったのだろうか?
あたりをうろついて探してみると、道標は不可解な場所で見つかった。峠からオゾ谷方面へ下る薄い踏み跡が伸びているのだが、そこから数メートルもずれた登山道外の木に括りつけられていたのである。しかも峠から見て裏側に。何者かの悪意を感じずにはいられなかった。こんな場所に移動させられていては道ゆく登山者の目に止まる可能性はまずありそうもない。
わたしは慎重に斜面を下り、問題の道標が記事のそれと一致しているか確かめてみた。わたしは思わず一歩後ずさった。道標は赤いインクですっかり塗りつぶされていた。よく見ると下のほうにわずかなスペースが残されており、神経質そうな角ばった書体で文字が書いてある。
〈楽しく安全な登山を〉
赤のインクは真新しく、つい最近この道標が塗りつぶされたことを意味していた。それに気づいた瞬間、いつもは気にならない木々のざわめきがどうにも気になりだした。がさりと音が鳴っただけで、道標を塗りつぶした狂人が潜んでいるのではないかという妄念が次々と湧いてくる。
急いでクラシ北尾根ルートに復帰した。本来の位置から大きく移動させられ、真っ赤に塗りつぶされた道標。皮肉めいた標語は犯行と同時に書き足されたもののようだった。一年前の写真にそんな文字はなかったからだ。
ワサビ峠を北上し、作ノ峰にいたる。ここにもいくつか山岳名を記したプレートがぶら下がっていたのだが、そのどれもが真っ赤に塗りつぶされていた。〈楽しく安全な登山を〉。例の標語も欠かさず添えられている。
普段のわたしはめったに地図を開いたりせず、方角が合っていれば問題なしとして勘を頼りに歩く怠惰な登山者である。だがこのときばかりは五分おきくらいに地図を広げ、現在地を見失わないよう相当気を配った。何者かの悪意が山に満ちていた。
しばらくは迷い込みそうな支尾根もなかったので快適に歩けていたのだが、どうもおかしい。なにがおかしいのかはわからないのだが、違和感がずっと付きまとっている。意識して木々を眺めているとすぐにわかった。枝に巻いてあるペナントがないのだ。
登山道には登山者を正しい道に誘導する目的で、一定間隔で赤や黄といった目立つカラーのテープが枝や幹に巻きつけられている。それを辿っていけば無事に下山できるという寸法である。ただしペナントがあるからといって必ずしも正しい道にいるとは限らない。マニアが自分のルート開拓用に巻いたものだったり林業の作業道に巻かれていたりするものもあり、これに頼り切った登山をすると深刻な道迷いに陥ることもある(わたし自身ペナントが巻かれている=正しい登山道という認識を振り捨てるまで、何度も道に迷った経験がある)。
予習で閲覧した記事にはバリルートとは思えないくらい密にペナントが巻いてあるという記述があった。ところが現場にはほとんど巻かれていないのである。意識して歩いていると、記事と現場の齟齬がなぜ発生したのかがすぐに判明した。
一年前まで巻かれていたであろうペナントはすべて、堆積した落ち葉に埋まっていたのである。老朽化したテープが自然にはがれることはあるし、細い枝に巻かれたものは枝ごと折れて役目を終えることもある。けれどもわたしが見つけたテープはそのどちらでもないようだった。鋭利な刃物で意図的に切断されていたのである。
その後もペナントは見つかったが、ほとんどすべて落下していた。それらのどれもが何者かによって切断されたらしい切り口を見せていた。
わたしはペースを速めた。日没が迫っているというのもあるが、この山域に一分たりともいたくなかった。15:30ごろ、当ルートの北端であるお金峠に着いた。ここにも立派な道標があるはずで、北谷尻谷やお金出合への情報が記載された手作りのプレートがあるとのことだった。
それはすぐに見つかった。記事通りの場所にちゃんと括りつけてあった。もちろん情報はいっさい得られなかった。全面真っ赤に塗りつぶされていたからだ。下に残されたわずかなスペースには、〈楽しく安全な登山を〉の文字。
わたしは膝にかかる負担もいとわず大急ぎで神崎川へ向かって下り始めた。道標やペナントを破壊しながら歩く悪意のかたまりのような登山者が、すぐそこまで迫っているような気がした。
15:40、お金明神分岐。ここには木に明神方面への道を示す手書きの文字が書かれているのだが、それももちろん塗りつぶされていた。わたしはもうさほど驚きはしなかった。ただただ気色が悪かった。
16:00ごろ、お金出合。ここにも手作りの道標があるのだが、わたしはいちいち状態を確認しなかった。どうなっているかは見るまでもなかった。進路を南にとり、大瀞から中峠を目指す。山中はもうかなり薄暗い。いつもなら夜間ハイクを怖いと思ったことはないのだが、今日だけは気が進まなかった。この時間では下山途中に陽は落ちてしまうだろうが、せめて日没までには地図に記載のあるまともな登山道に復帰していたかった。暗がりに浮かび上がる真っ赤な道標を見たいとは思わなかった。
17:10、すっかりあたりは暗くなっていたものの、どうにか中峠に着いた。ここから朝明渓谷までは1時間程度の行程である。中峠ルートは若干険しいものの、地図に記載のある通常ルートである。ここまでくれば陽が落ちても大丈夫だ。
ザックを下ろしてヘッドランプを準備しがてら、風の吹き荒ぶ中峠でしばし休憩をとる。すっかり緊張もほぐれ、漠然と温泉やら夕飯やらのことを考える余裕も出てきていた。
「こんばんは」
わたしは情けないほど大げさに驚いていたと思う。慌てて声のしたほうを照らすと、老齢の登山者が闇のなかにぼんやりと浮かび上がっていた。
言うまでもないだろうが、夜間ハイクを計画に織り込む登山者はまれである。夜の山は夜行性の動物が活動し始めるし、歩きなれていないと深刻な道迷いに陥りやすい。積極的に習得する技術ではなく、日没に間に合わなかったときの保険としての意味合いが強い。夜の山で人間に会う機会は限りなく少ない。
「兄ちゃんはこれから下山かね」と老人は親しげに話しかけてきた。
「日没に間に合わなくて。秋は陽が落ちるのが早いですね」
「気をつけてな。中峠経由で降りるのかい」
「そうです。そちらは?」
「俺はこれから猫岳までいって幕営だよ」
老人は日没後の山中をなお一時間以上も歩いてからテント泊するという。相当のマニアである。わたしは既視感を覚えた。どこかで会ったことがあるような気がする。特徴的な話しかたと陽に焼けた顔。すぐに思い出した。
「もしかしてイブネでお話しした……?」
「あのときの兄ちゃんかい。また会ったな」
こんな調子でしばらくわたしたちは山談義に花を咲かせた。夜間ハイカーは同族に巡り合うことがまれなので、自然会話も弾む。ふと気づいて時間を確認すると、17:30すぎだった。本格的に暗くなる前に下山しておきたいと伝え、暇を告げた。
「引き留めて悪かった」老人は手を振って歩き始めた。「それじゃ、楽しく安全な登山を」
この怖い話はどうでしたか?
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