
水族館で働きはじめたのは、冬の終わりだった。
海の展示は残す一方で、古い淡水生物の部屋は春に閉鎖する。私はその片付けを手伝う臨時職員で、担当は水槽の記録と餌やりだった。責任者の久保さんは六十代で、仕事の話以外はほとんどしない人だった。
最初に数字の違いに気づいたのは、閉館後の点検中だ。小さな水槽にいるはずのドジョウは六匹。ところが何度数えても、底にいるのは五匹だった。
台帳には、前日も六匹とある。死骸は見当たらない。久保さんに伝えると、彼女は水槽を覗きもせずに言った。
「数え直さなくていいよ。あそこは昔から、そういう水槽だから」
意味を尋ねても、返事はなかった。
その日の夜、私は夢を見た。水の入っていない展示室で、白衣の男が、空の給餌スプーンを何度も水槽に差し入れていた。顔は暗がりで見えない。男は私に気づくと、スプーンを持ったまま言った。
「札を裏返してくれ」
翌朝、夢のことは忘れかけていた。けれどドジョウの水槽の前で、給餌記録の札が裏返しになっているのを見つけた。表には「給餌済み」と書かれている。裏には、古い字で「未給餌」とあった。
久保さんは札を見て、指先を止めた。
「それ、誰が触ったの」
私は知らないと答えた。彼女は札を元に戻し、その日の餌やりを私に任せた。ドジョウは餌を食べた。五匹とも、底の砂から顔を出して。
その晩から、同じ夢を見るようになった。白衣の男は毎回、空のスプーンを持っていた。日に日に声が近くなり、三日目にはこう言った。
「久保さんにも、食べさせてやってくれ」
翌朝、その話をすると、久保さんは給餌記録の札を乱暴に外した。
「もうやめて。あの人の話を持ち込まないで」
彼女は、男が以前この水族館にいた飼育員だと教えてくれた。展示室の縮小が決まったころ、彼は生き物を別の施設へ移そうと主張したが、引き取り先が見つからず、最後まで反対したらしい。閉鎖が延期されることはなく、彼は退職後まもなく亡くなった。
「水槽の数なんか、誰も気にしない。あの人だけが、毎日数えてた」
久保さんはそれ以上話さなかった。
その夜、閉館後の事務室で、久保さんが電話をしていた。誰もいない向かいの椅子に向かって、何度も「今は無理です」と言っている。私は声をかけなかった。
その翌週、展示室の最後の夜が来た。私は空になった水槽の水抜きを担当し、久保さんは台帳を閉じる作業をしていた。ドジョウは移送先へ送ったと聞いていたが、記録上の数は最後まで六匹だった。
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