
長編
幻の村
しもやん 3日前
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迷いのない足取りで先導を務めてくれた。わたしはその後ろをコバンザメのようにただひたすら、盲目的に追従する。
どれくらい歩いただろうか。時間を確認していないのであて推量になるが、1時間以上は経っていた。彼女に会ったのが8合めだったのだから、山頂はそう遠くないはずだ。もうとっくに着いていてもおかしくはない。
会話が途切れたところで、聞いてみた。
「すいません、山頂はまだ遠そうですかね。お腹空いちゃって」
「まだだよ」
ゾッとするような声音だった。
「美奈子さんに会ったのが8合めでしょ。もう着いててもいいような気がするんですけど」
また道迷いに巻き込まれてはかなわない。言外にそう匂わせたつもりだった。
「もうすぐだって。いいから着いてきて」
こちらは助けてもらったうえに藤原岳初挑戦の身だ。そうするよりなかった。
さらに1時間は絶対に経っていたと思う。8合め地点から数えればゆうに2時間以上となる。
ちなみに〈山と高原地図〉の目安コースタイムは「麓からの全行程で」2時間30分程度である。多少足の速い健脚者なら、下から登って山頂にいる頃合いだ。どう考えても時間がかかりすぎている。
「着いたよ」
意を決して意見しようとしたとき、めっきり口数の少なくなっていた美奈子さんが唐突につぶやいた。
わたしはすっかり度肝を抜かれてしまった。
山頂は広大な高原然とした場所で、見渡す限りどこまでも続いているように思えた。ススキが生い茂り、アキアカネが無数に飛び交い、畦道で四角く区切られた区画には黄金色に輝く稲穂が頭を垂れている。茅葺き屋根の古民家が点在し、壁には鍬や鋤といった農機具が立てかけられていた。情景の全体がきつね色一色で、吹き渡る微風にススキと稲が幽かに揺れていた。
いまにも民家から野良着姿の老人が顔を出しそうな雰囲気なのだが、不思議と人の気配はなく、風の音以外はいっさい無音であった。
「美奈子さん、ここは……?」
聞かずにはいられなかった。
「あたしの故郷」彼女は目を細めてうっとりとしていた。「あたしの生まれた場所」
いまでも鮮明に覚えている。彼女は確かにそう言ったと思う。そのときはそうなのだろうと納得してしまった。わたしは読者が想像もできないような田舎育ちである。この情景には子ども時代の郷愁を誘う強烈な魔力があった。どう考えてもここは藤原岳の山頂ではないのだが、それは些細なことのように思えた。
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