
長編
幻の村
しもやん 2日前
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づいた。近い。
「ねえ、誰かいるの」
わたしは弾かれたように立ち上がり、大きく手を振りながら絶叫していた。「ここです、ここにいます!」
声のしたほうへ矢も楯もたまらずに走っていくと、間もなく尾根芯に出た。人がおよそ歩けないような山腹を延々とトラバースしていたらしい。〈迷ったら尾根を辿れ〉。当時のわたしはこんなことも知らなかったのだ。
息を切らせて声の主を探すと、カラフルな装いの若い女性がきょとんとした表情で待っていてくれた。いまでも彼女の顔をよく覚えているのだが、色の白いうりざね顔の、切れ長の目をした薄幸そうな女性だった。
推定25~35歳くらい、黄土色のサファリハットに防寒用のウィンドブレーカーを羽織っていた。アウターの鮮烈なピンクが強く印象に残っている。
「さっき返事したの、あなた?」
「そうです。実は道に迷ってしまって。おかげで助かりました」
現在地は8合めの表道・裏道の合流点である由。深山幽谷に迷い込んでしまったと絶望していたのだが、案外正規ルートの近くをうろついていたのだ。道迷いとは概してこんなものである。
「どうせなら山頂まで一緒に来る? あたしこの山詳しいから」
願ってもない申し出であった。
彼女は美奈子と名乗った。三重県在住で、藤原岳には春秋冬の「オールシーズン」欠かさず登っているそうだ(夏が抜けているのはヤマヒルが大量に出現するため。事実上鈴鹿は夏に限り、入山禁止のようなものである)。
わたしはすっかり舞い上がっていた。地元の、それも若い女性に案内してもらえる僥倖に巡り合えるなど、そう滅多にあるものではない。それだけでは足りないとでもいうかのように彼女は親しげに話しかけてくれて、味気ない登山に彩りが添えられた。
その後何度も藤原岳には訪れるのだが、その日は初挑戦だったため美奈子さんに先導をお願いし、道案内を全面的に任せる格好となった。
あらかじめ断っておく。もし読者が似たようなシチュエーションに出くわしたのなら、見知らぬ他人を頼るのはよくよく慎重になってほしい。彼または彼女がどんな意図であなたを導こうとしているのかを勘ぐってほしい。〈登山者はみな親切である〉という性善説に依拠した格言があるが、まったくの誤謬である(わたしは槍ヶ岳山荘で、乾燥室に干しておいたウィンドブレーカーを盗まれたことがある。登山者はみな親切が聞いて呆れる)。
美奈子さんは万事心得ているらしく、
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