
長編
幻の村
しもやん 3日前
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わたしは誘われるように古民家の軒先を潜った。
内部に入ると土間があり、そこから三和土につながっていた。奥には囲炉裏を板の間で囲った和室があり、囲炉裏にはさっきまで人がいたかのように赤々と火がかかっている。火を受けている鍋には里芋やゴボウの雑煮が入っていて、湯は沸騰していた。
美奈子さんも入ってきて、まるで自分の家ででもあるかのように靴を脱ぎ散らかし、囲炉裏の前で足を崩した。彼女は目を細めて微笑むと、こう言った。「こっちに来なよ。一緒に食べよ」
それからの記憶がない。一緒に雑煮を食べたのか、怖気づいて逃げ出したのか。
気づくとわたしは聖宝寺ルート登山口に突っ立っていた。すっかり陽は落ちていて、時刻は21時であった。驚くべきことに翌日の21時だった(土曜日の山行だったため、無断欠勤をやらかさずに済んだのだけが不幸中の幸いである)。
気持ちの整理がつけられず、その場に30分以上もへたり込んでいたと思う。
* * *
読図ができるようになってから、わたしは折りに触れて藤原岳付近の地形図を眺めるようになった。
あれだけ広大なスペースなら、地形図上に平坦な長い楕円として描かれているはずである。藤原岳直下には無人の山小屋があり、カレンフェルトの岩塊の点在する高原のような場所が確かにある。けれども民家や田園はないし(そもそも水の得られない山頂付近で稲作などできるはずがない)、それらがあった形跡もない。諦めきれずにこの地方の郷土史を読み漁ったけれど、藤原岳に人が住んでいた記録も残っていなかった。
藤原岳8合めから2時間圏内で行ける似たような場所となると、御池岳(1,247メートル)のテーブルランドくらいしか思いつかない。確かに見渡す限りの高原だし、秋になれば枯草が稲に見えなくもない。問題は民家である。当然テーブルランドにもそんなものは建っていた形跡すらないのだ(本筋とは逸れるが、紅葉の時期のテーブルランドは死ぬまでに一度は訪れておきたい屈指の景勝地である)。
一連の出来事は白昼夢だったのだろうか? わたしは道迷いで発症したパニックからいもしない女性と、ありもしない日本の原風景を幻視したのだろうか? そうかもしれないが、それにしては記憶が鮮明すぎるのが気にかかる。すべて夢や幻で片づけるには体験が生々しすぎるのだ。
登山を始めて十余年、ヤマヒルの出なくなった秋になると、わた
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