
長編
山岳遭難体験記
しもやん 12時間前
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ていないのなら、ここは不正解ルートなのだ。このまま下っていけば誰も歩いたことのない人跡未踏の沢に出て、進退窮まってしまう。
しかしさっき登山者がこっちを選んで降りていったではないか? わたしの思考能力は寝起き直後程度にまで減退していた。彼が何者であるにせよ、この尾根は支尾根である。尾根芯に復帰せねばならない。でももう10分も下ってしまった。登り返すのにはもっと時間がかかる。すでに歩き始めて8時間以上経っている。空腹もつらいし足腰も痛い。もう1メートルだって登りたくない。
思考は混乱し、絶え間なく降りつづける雨音が体温と正気をぐんぐん奪っていく。
なにより目前には例の派手なレインコートを着た登山者がいた。彼はわたしを待っているかのように数メートル先にたたずんでいる。有効視程が1メートル強しか得られない闇と霧のなか、はっきりと存在を感知できるというのはどう考えてもおかしい。しかしこうした窮地に先駆者がいることほど心強いものはない。
彼はついてこいとでも言うかのように、しきりに手を振って合図を送ってくる。フラフラと足が勝手に動き始める。彼についていけばこの迷宮から脱出できる。温泉に入ってラーメンを腹いっぱい食べられる。ほとんど下山した気になっていた。
わたしは喝を入れるため、無意味な大声を出した。ここでようやく正気を取り戻せた。登山者は消えていた。やはり自分の脳が造り出した幻覚だったのだ。スマートフォンを確認すると、案の定間違った尾根にいることがわかった。ロスは痛いが登り返すしかない。
無心になって分岐点へ復帰していると、雨に紛れて後ろから声が聞こえてきた。
「おーい、こっちだぞ」
わたしは振り返らなかった。
「そっちじゃない、こっちから下山できるぞ」
声はすぐ後ろから聞こえてくる。〈振り返れば死ぬ〉。直感的にそう思った。次振り返って派手なレインコートを目撃したが最後、わたしはおそらく正気を失って彼についていってしまう。
声はしつこかったが、尾根の分岐点に着いたところでぱったりと止んだ。わたしは何度も深呼吸をくり返し、素数を暗誦し、地形を読んで根気よくドロップポイントを探り、ここだと思う地点にライトを向けた。
ペナントが巻いてあるのをどんぴしゃりで発見した。命を拾った瞬間であった。
用心に用心を重ねた結果、下山完了は20:10だった。わたしの乏しい登山経験のなかでも、ベスト3に入る臨死
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- 臨場感溢れる文章と自分の徹底した客観視が相まって面白かった魂観
- 文才に尊敬と嫉妬です。1人で寝れない