
冬のよく晴れた日に、地下の種子標本庫で棚卸しをしていた。
私は記録係になってまだ三週間。指導役の榊さんは、話すより先に数字を確認する人だった。
「台帳と現物が一つでもずれたら、戻って探す。種は逃げないけど、記録は逃げるから」
昼を少し過ぎた頃、台帳にない白い蛾が、棚の端に止まった。羽に灰色の粉がついている。こんな場所で生きているはずはない。標本庫は低温で、扉も二重になっていた。
蛾は、真鍮の種子札に移った。札には「北区・旧採種地」と刻まれている。そこは数年前、施設の拡張工事で埋め立てられた場所だった。
「外から入ったんでしょうか」
「地下に窓はないよ」
榊さんが札を手に取ろうとした瞬間、蛾が棚のすき間へ消えた。
そのすき間を確かめようと、私は標本箱を一つ引き出した。中には、薄紙に包まれた種が整然と並んでいる。けれど箱の奥から、かすかな羽音がした。
蓋を開けた途端、白いものが一斉に舞い上がった。
蛾だった。箱の中にも、棚の奥にも、隣の箱にも、何百匹という蛾が折り重なっていた。羽音はひとつの大きな息のように庫内を満たし、私の頬や手に次々と触れた。声を出そうとしたが、喉が閉じて音にならなかった。
榊さんが私の腕をつかみ、扉の外へ引きずり出した。すぐに職員を呼び、殺虫灯と捕虫網を持って戻った。
標本箱の中には、種子と薄紙しかなかった。棚にも床にも、羽一枚落ちていない。真鍮の札は、台帳どおりの場所に戻っていた。
職員たちは驚かなかった。榊さんは札に触れず、しばらく頭を下げていた。
「昔、この辺りの種を集めた人がね。埋め立ての前、最後の採取に行ったんだ。蛾の幼虫に食われて、ひとつも持ち帰れなかった」
その夜、棚卸しの記録を確認すると、「旧採種地」の札だけ、数が一つ合わなかった。
翌朝、榊さんは何事もなかったように訂正していた。
帳簿の数字は一つ減り、種子札の裏には、白い粉が薄く残っていた。
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