
長編
クソカミ
匿名 2025年5月22日
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東北のA県での話。私は知人から近隣の村にある山菜採りの穴場を紹介された。なんでもフキやワラビの質のいいものが採れるとのことだ。私は山菜には目がないので、その週末の晴天にこれ幸いと車を走らせた。道中はずっと山林に沿って進む。緑が美しく、日々の暮らしに疲れた私の心を潤す。しばらく車を走らせると、知人の言っていた通り、路傍に砂利で整備されていて車を停められる場所があった。幸運にも先客はなし。リュックを背負い、手袋をして、準備を整えると、早速野に分け入った。
しばらく進むと、ベニヤ板にマジック書きの、見るからに手製といった趣の看板が立てられていた。
「便所 自由につかってください」
という文言と共に獣道を矢印が指している。こんな何もない場所になぜ便所が設置されているのだろうか。少し興味を引いたが、目的は山菜採りである。看板を尻目に、私はさらに奥に進んだ。
件の穴場にたどり着くとそこは話に聞いた以上の場所であった。ちょうど食べ頃の山菜がそこかしこに生えている。フキ、ワラビ、タラの芽、ウド――夢中になってリュックいっぱいに山菜を詰め込んだ。……少々採りすぎたか。山菜というのは滋味を味わうものであるが、裏を返すとあく抜きなどの面倒な下ごしらえがついて回る。そうした下ごしらえのことを考えながら、張り切りすぎていた自分自身に対して苦笑した。時計をみるともう1時間以上も経っている。グルルと腹が鳴ると便意を覚えた。その時になって、道中の看板のことを思い出した。せっかくなので、便所を使わせてもらおう。
少し戻ると例の看板の矢印が指すほうに進んだ。ところどころに「私有地」と立て看板があったが、自由に使っていいというので侵入しても問題ないのだろう。もうしばらく歩を進めると、工事現場にあるような仮設便所が見えてきた。便所のドアにもやはり、
「便所 自由につかってください」
と張り紙がされている。そのころには便意も最高潮に達していたので、
「使わせてもらいます」
と声を上げてドアを開けた。ドアにはベルが取り付けられていて、開くとカランカランと音が鳴った。清潔というわけではないが、手入れはされていて、紙も備え付けられていたのがとてもありがたかった。用を足すと、軽快になった体でドアを開いた。
そこには一人のおじいさんが立っていた。水の入った大容量焼酎のペットボトルを用意しており、
「手を洗って」
と声をかけてきた。なんと親切なのだろうか。私はお礼を言うと、おじいさんが手に水をかけてくれるのでそれで手を洗った。すっかり用も済んだところで、もう一度お礼を言い、立ち去ろうとした。するとおじいさんは再び声をかけてくる。
「お供えありがとう」
私がポカンとした顔をしていると、それを見て話をつづけた。
「この石碑はとても古いものでな、江戸時代からここにある」
老人が指す先には、軽自動車の鉄チンホイールほどの大きさの石が置いてある。石には、錆び切ったトタン板と木で作った、祠のような形の覆いがされている。目を凝らすと、ミミズがのたうったような細い線の下手クソな文字で
「クソ
カミ」
と彫られていた。おじいさんはさらに続ける。
「この神様にはな、その昔、人間の大便をお供えするという風習があったらしい。もっとも、そんな風習も、この神様のことも皆忘れてしまっていた。しかし、クソカミ様は何年か前にオラの夢さ現れてな、『山に人間のクソを備えるように』とそう言った。オラもそんな風習は聞いたことがなかったよ。でも夢を見て、それをしなければなんないと思った。それから急いで、知り合いのツテでこの便所を買ってきた。夢に見た山さ来ると、見たこともなかった石碑があったんだよ。山に便所を置いて、ことあるごとにここさ来てクソをした。やっぱり、神様ってのはすげぇんだ。本当にお供えの効果があったんだよ。オラはお供えするようになってから、もう何年も便秘知らずだ。それからな……」
おじいさんは早口になって語り続ける。誰も聞いたことのない風習、しかも、人糞がお供え物?――何を言ってるんだ。挙句の果てにその効果は便秘が治った?誰も知らない、見たこともない石碑が、江戸時代から存在するなんてどうして知っているのか?聞いているだけでおかしな話だ。はっきり言ってバカバカしいと思った。このような頭のおかしい人物とは妙な縁を作りたくない。
「あの!おトイレありがとうございました!もう行かないと」
おじいさんの言葉を遮って礼を言い、その場を後にする。するとおじいさんも
「こちらこそお供えありがとう」
と抑揚のない声で言った。
車まで向かう途中、今度は頬かむりをしたおばあさんが現れて挨拶をしてくる。
「こんにちは」
私も
「こんにちは」
とあいさつを返すとおばあさんは続けた。
「あんたさん、あのKさんのとこのじいさまと話したか?神様とかなんとか変なこと言ってたべ。江戸時代からとかなんとか。あれは全部作り話だからね」
「やっぱりそうなんですね」
私は苦笑した。
「あのじいさま、あるときからおかしくなってね。夢で神様にあったとか言い始めてさ。それから、どっかから大きい石拾ってきて、自分で電気の工具で文字彫ってさあ。それで軽トラックさ便所と石積んで自分の山さ持っていってね」
「はあ……」
「そんで、うんこするためにって言って毎日山さ入るようになったんだよ。一緒に暮らしてた、ばあさまも息子もお嫁さんも心配したんだ。なんだか訳のわからない宗教かなんかに騙されてるんじゃないかってね」
「そうなんですね」
「けど、その同居の家族が皆死んでしまったから誰もあの人を止められないでいるな。誰も相手にならないでいたら、今度はよそから来た人を捕まえて妙な話を吹き込んでるみたいで。だから、あの人がそういうことをしてるのに気づいたら、私たちみたいなのが声をかけるようにしてるの。そうでないと、ここら辺の人みんなおかしいと思われたらたまったものでないから」
「ご家族は何で亡くなったんですか?」
「みんな病気とか事故とか様々の理由だったんだけどね。けど、あの人が石と便所を置いてから2年くらいの内に死んでしまったから。みんな気味悪くて関わりたくなくてさ」
「そうなんですね。いろいろと聞かせてもらってありがとうございました」
やはり、あのおじいさんは、「有名人」だったようだ。すっかり山菜採りを楽しんだ高揚感もそがれてしまったままで、帰途についた。そうはいっても、山菜はとても美味しかった。
妻が亡くなったのは、その一件からひと月もしない内のことだった。真夜中に寝室で苦しみ出したと思ったら急に静かになった。懸命の処置もむなしく息を引き取った。
妻の葬儀は身内だけで小さく執り行った。しかし、驚いたことにあの時のおじいさんが参列していたのである。私のことは何も知らないはずなのに、どこで聞きつけたのだろうか。私が怪訝な表情をしているのを見たおじいさんが近寄ってきた。
「この度はご愁傷さまです。クソカミ様が、夢さ現れて教えてくれたんです。お供え、嬉しかったみたいです。これで私も当面は便秘がよさそうです」
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