
冬の遊覧船は、昼でも客が少ない。
私は船内放送の音量を調整する仕事をしている。以前は、婚約者の部屋に入り浸っていた。彼は古い物を捨てられない人で、棚には欠けた皿や動かない時計が積まれていた。
別れたとき、私は彼の頼みで部屋を片づけた。頼まれたのは本や衣類だけだったが、壊れた真鍮の呼び鈴まで箱に入れて捨てた。彼が何度も鳴らしては、誰もいない玄関へ「お待たせしました」と言うのが気味悪かったからだ。
その呼び鈴を捨てた翌週、彼は事故で亡くなった。
私はそれを、ただの偶然だと思うことにした。
今の恋人は、船の整備を手伝う年下の男だ。ある午後、点検のため操舵室に入ると、机の上に真鍮の呼び鈴が置いてあった。
「これ、岸の草むらに落ちてた。まだ鳴るんだよ」
彼が試しに押す。鈴は、乾いた音をひとつ鳴らした。
私は、見覚えのある傷を見つけた。持ち手の根元に、私がつけた小さなへこみがある。
あれは、捨てたはずだった。
それから呼び鈴は、船の中で場所を変えた。机から放送卓へ。放送卓から私のロッカーへ。ロッカーには鍵がかかっていたし、恋人は「触っていない」と言った。
彼の声を疑う気にはなれなかった。私は、死んだ婚約者が私を責めているのだと思った。あの呼び鈴を手放したことを。彼を見捨てたことを。
次の朝、呼び鈴は操舵席の足元にあった。私は布で包み、鞄に入れた。捨てても戻るのなら、返すしかない。そう考えて、船を降りた。
恋人が背後から追ってきた。
「待って。それ、返して」
私は振り向かなかった。彼があの音を聞きたがるのは、呼び鈴のせいだ。彼まで引きずり込まれる前に、元の持ち主のところへ持っていかなければ。
岸へ向かう階段を上りながら、鞄の中で鈴が鳴った。
ひとつ。
続けて、背後からもうひとつ。
振り返ると、恋人が船の入口で呼び鈴を押していた。こちらへ来る客に向けるような、仕事の顔で。
そのとき、船内放送のスピーカーから、死んだ婚約者の声が流れた。
「お待たせしました」
私は初めて気づいた。あの人が毎晩呼び鈴を鳴らしていたのは、玄関に誰かが来るからではなかった。
船内放送の録音を、彼が勝手に持ち出していたのだ。
そして今、鞄の中から鳴った鈴に合わせて、スピーカーがまた言った。
「次のお客様、どうぞ」
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