
妹が結婚すると聞いたのは、六月の終わりだった。
電話をかけてきたのは母だった。
「美央がね、結婚することになったの」
母の声は明るかった。けれど、私はすぐに返事ができなかった。
妹の美央とは、もう五年近く会っていなかった。
私だけが地元を出た。
大学進学を機に、あの山間の町から逃げるように上京した。卒業後も東京で就職し、盆にも正月にもほとんど帰らなかった。帰れなかった、という方が正しいかもしれない。
あの町が嫌いだった。
山に囲まれた、小さな集落。
商店は一軒だけ。
バスは一日三本。
小学校と中学校が同じ敷地にある、古い木造校舎。
私はそこで九年間を過ごした。
学校の裏には、使われなくなった旧校舎があった。さらにその奥には、昼でも暗い杉林が広がっていた。
子どもの頃、私たちはその場所を「裏山」と呼んでいた。
裏山には、いくつも怪談があった。
一つ目は、「山鳴り様」の話。
放課後、校舎の裏から低い太鼓のような音が聞こえたら、すぐに帰らなければいけない。
音を無視して残っていると、山の方から誰かに名前を呼ばれる。
返事をすると、次の日から声が出なくなる。
二つ目は、「白い靴」の話。
昇降口に、持ち主のない白い上履きが片方だけ置かれていたら、それを見た子は放課後、旧校舎へ行かなければならない。
行かなければ、夜中に玄関の前まで白い靴がついてくる。
三つ目は、「黒板の花」。
誰もいない教室の黒板に、チョークで花の絵が描かれていたら、その席の子は近いうちにいなくなる。
花びらの数が多いほど、遠くへ連れていかれる。
四つ目は、「三度目の呼び鈴」。
職員室前の古いベルが、授業中でもないのに三回鳴ったら、その日は誰かが“山へ上がる”。
山へ上がった子は、戻ってきても前と同じではない。
どれも、田舎の学校によくあるような怪談だった。
私たちは怖がった。
でも、どこかで楽しんでもいた。
怖い話があることで、退屈な学校生活が少しだけ特別になるような気がしていた。
母の電話の向こうで、美央が照れたように笑っている声がした。
「兄ちゃん、式には来てよね」
私は少し迷ってから、「行くよ」と答えた。
結婚相手の名前は、沢村悠人というらしい。
沢村。
その名字を聞いたとき、胸の奥に小さな棘が刺さった。
沢村家は、私たちの学校の裏山を所有していた家だった。
町では昔から顔が利く家で、校長も教育委員も、沢村家には逆らえないと言われていた。
けれど、私は何も言わなかった。
一か月後、私は十年ぶりに地元の駅へ降りた。
後日談:
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