
春先の曇った日に、姉と山あいの魚市場へ行った。
取り壊しが決まった市場の音を、録音の仕事をしている私に残してほしいという。姉は子供の頃、この町で暮らしていた。
昼を過ぎても市場は静かだった。シャッターの降りた店を抜け、裏手の冷蔵倉庫へ向かう。姉がふと足を止めた。
「ここ、まだあったんだ」
壁には、錆びた四角い台座だけが残っていた。
「昔は警報笛がついてたの。冷蔵庫が壊れると、町じゅうに聞こえるくらい鳴ったんだって」
その笛は、姉が小学生の頃にはもう外されていたらしい。
「でも一度だけ、鳴ったことがある」
霧の濃い夜、倉庫の機械が止まった。誰も異常に気づかなかったのに、町には警報が響いた。近所の人が様子を見に来て、倉庫の中に閉じ込められていた作業員を見つけたという。
「笛はないのにね」
姉は笑って、錆びた台座を指でなぞった。
そのとき、録音機の波形が跳ねた。
耳には何も聞こえない。けれど、ヘッドホンの中で、甲高い笛の音が三度鳴った。
倉庫の窓を見上げると、二階の暗がりに作業服の男が立っていた。こちらではなく、姉の背後をじっと見ている。
私は姉の腕をつかみ、市場の外へ引っぱった。背後で、金属の扉が重く閉まる音がした。
帰りの車で姉は「何か聞こえた?」と尋ねた。
「録音に変なノイズが入っただけ」
そう答え、データを確認した。
笛の音は三度。その直後、録音機には私の声が入っていた。
『そっちは危ない。姉さん、こっちへ』
私はその言葉を、口にしていない。
さらに、その後ろにもう一つ、低い声が残っていた。
『今度は、ひとりで来い』
姉には聞かせなかった。けれど、あの男が誰を見ていたのかは、もう分かっている。
録音を消してから、窓の外を見た。
曇り空の下、助手席の姉は眠っていた。後部座席には、作業服の男が座っていた。
今度は、私を見ていた。
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