
海沿いの古い団地で、春から管理人の代行をしている。
冬のあいだに前任者が急に辞めたらしく、引き継ぎは鍵束と、部屋番号が並んだ薄いファイルだけだった。仕事は簡単だ。共用灯を確認して、掲示板を貼り替えて、住人からの連絡を業者に回す。それくらい。
困ったのは、二号棟の三〇六号室だった。
空室なのに、水道の使用量が増えている。
最初は検針の間違いだと思った。建物は古いし、配管も何度か修繕している。漏水の可能性もあるので、設備業者の真鍋さんに見てもらうことにした。
「メーターは動いてますね。蛇口が開いてるか、どこか漏れてるか」
三〇六のドアには、管理会社が貼った白い札がぶら下がっていた。『空室・立入時は管理人へ連絡』。鍵は私が持っている。
中は、妙に片付いていた。
家具はない。カーテンもない。台所の流しは乾いている。真鍋さんは水を止め、便器のタンクを確かめ、床下の点検口まで開けた。漏れは見つからなかった。
帰り際、彼は玄関の内側を見て言った。
「ここ、住んでる人いるんですか」
「いませんよ。ずっと空室です」
「そうですか。さっき廊下にいた人、ここの人かと思った」
誰もいなかったはずだ。私はそう答えた。真鍋さんは首をかしげただけで、次の現場へ行った。
その日の午後、団地の住人から苦情が来た。
「三〇六の人が、夜中に洗濯機を回すんです。ずっと水の音がして眠れない」
空室だと説明すると、相手は不思議そうに黙った。勘違いかもしれない。配管の音が響いているのだろう。古い建物にはよくあることだ。
私はそう考え、三〇六の水道メーターに封をした。
翌朝、封は破れていなかった。それでも使用量は増えていた。
数日後、訪問看護師の女性が管理室に来た。二号棟の高齢者を担当しているらしい。
「三〇六号室の方に、薬を届けたいんですけど」
「空室ですよ」
「でも、いつも玄関を開けてくれます。声が出しづらいのか、顔は見せないんですけど」
私は入居者名簿を見せた。三〇六は空欄。前の住人は三年前に退去している。女性は名簿を見ても納得しなかった。
「昨日も、ここから出てきましたよ。白いシャツの、背の高い人」
その夜、私は三〇六の前で待った。
昼間の晴れが嘘のように、海風が廊下を抜けていた。九時を過ぎたころ、部屋の中で水が流れる音がした。続いて、洗濯機の脱水のような低い振動。
鍵を開けた。
中は空だった。流しも浴室も乾いている。音は、壁の奥から聞こえていた。
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