
冬の灯台で設備点検を手伝った日のことです。
昼過ぎまで階段を上り下りして、管理室の折り畳み椅子で少し休むことにしました。窓の外はよく晴れていて、海も静かでした。なのに目を閉じても眠りは浅く、姉から届いた「帰りに牛乳を買って」というメッセージを何度も思い出していました。
次に気づいたとき、姉の声が聞こえました。
「そこ、開いてるよ」
返事をしようとしても、指一本動きません。声は耳元ではなく、部屋の隅から聞こえます。なんとか目を開けると、白い壁に黒い戸口がありました。点検中に見たときは、そこは何もない壁だったはずです。
戸口の向こうから、濡れた足跡が一つずつ現れました。こちらへ向かって床に印をつけてくる。足音はしません。足跡は椅子の手前で止まり、しばらくして、私の胸の上にもひとつ増えました。
息が詰まって、ようやく手が動いた瞬間、戸口も足跡も消えました。
その後、点検で極端に疲れた日に二度、同じことが起きました。三度目は、壁に戸口が現れるより先に、姉の声がしました。
「そこ、開いてるよ」
目が覚めてから姉に電話すると、そんなメッセージは送っていないと言います。履歴にも残っていませんでした。
私は、寝ぼけて聞いたのだろうと思うことにしました。けれど灯台を離れる前、管理室の床を拭いていた同僚が、椅子のそばに濡れた足跡が続いているのを見つけました。
窓は閉まっていました。私の靴底も乾いていました。
足跡は、壁の前で途切れていました。そこは、戸口などないはずの場所でした。今でも、誰かに「そこ、開いてるよ」と言われるたび、あの壁を思い出します。壁の向こうから、まだ誰かが入ってこようとしている気がするのです。そう考えると、あの声は私に戸を開けろと言っていたのかもしれません。あるいは、もう開いていると知らせていたのかもしれません。
姉には、あの灯台のことを話していません。
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