
「お疲れさま」
地下書庫に入るたび、古い搬送口の向こうから声がする。
私は市立図書館で、傷んだ資料を直す仕事をしている。地下書庫は窓がなく、冬でも空気がぬるい。壁の奥には、昔使われていた書類搬送用の小さなリフトが残っていた。扉は溶接され、操作盤も外されている。
初出勤の日、鍵を開けて中に入ったときだった。
「お疲れさま」
声は、搬送口の内側からした。
驚いて管理室に聞くと、先輩は「古い配管が鳴るんだよ」と笑った。けれど、配管の音が人の声に聞こえるほど疲れていたわけではない。
それから私は、書庫に入るたびに返事をした。
「おはようございます」
「戻りました」
「今日は寒いですね」
向こうから返ってくるのは、いつも同じ声だった。
「お疲れさま」
ひとりで長時間作業をしていても、それを聞くと妙に気が楽になった。顔も知らない相手に、仕事を見てもらえているような気がしたのだ。
ある朝、先輩が古い設備図面を広げた。
「これ、撤去した記録がないな。リフトの中、空かどうかだけ確認しよう」
溶接を切る作業は午後になった。私はその前に、いつものように書庫へ入った。
「お疲れさま」
いつもの声がした。
その直後、金属板を内側から叩く音が三回続いた。
先輩を呼びに行こうとして、私は足を止めた。リフトの扉には、作業前に貼られた封印紙が残っていた。切れてはいない。溶接も、ひと目でわかるほど古い。
つまり、向こうから叩いたのだ。
午後、私たちは扉を開けた。
中には、古い制服を着た男が座り込んでいた。痩せた手は、扉の内側に向けて伸びている。顔は乾き、目だけがこちらを見ていた。
先輩が息をのんだ。
「この人、昔ここで夜間管理をしてた人だ。ずっと前に、急にいなくなったって……」
私は、その顔を知らないはずだった。
けれど、聞き覚えのある声が耳の奥で繰り返された。
お疲れさま。
毎朝、書庫に入る私へ向けて。帰る私を見送るように。
男の胸元には、古い名札が残っていた。裏面に、鉛筆で短く書かれている。
『開けてくれて、ありがとう』
その日から、地下書庫では声がしなくなった。
ただ、私が退勤して扉を閉めると、向こう側から金属板を叩く音が三回する。
先輩は、配管の音だと言う。
だから私は、毎回返事をしている。
「お疲れさまでした」
後日談:
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