
出張帰りにフェリーを待っていた時のことです。
冬の昼で、海はよく晴れていました。待合所の売店には客がほとんどおらず、私は窓際の椅子で乗船案内を読んでいました。
隣に座った若い男が、試飲券を一枚くれました。売店で新作のホットレモンを配っているらしい。男は「もう飲んだんですけど、意外とうまいですよ」と言って、私の分まで店員に頼んでくれました。
紙コップを受け取った店員は、男を見るなり一瞬だけ手を止めました。それから何も言わず、湯気の立つ飲み物をカウンターに置きました。
男は「よかったら」と、私の前にコップを押し出しました。
私は礼を言って、ふたの飲み口を開けました。レモンの香りがしました。けれど、表面に浮いた液体は、光の加減では片づけられない薄紫色でした。
薬を毎晩飲んでいるので、私は知っています。私の睡眠薬は、水に溶かすとその色になる。
コップを持ったまま店員を見ると、彼女は目を伏せ、カウンターの下で小さく首を振りました。
私は飲まずに、男へ「これ、混ぜたの?」と聞きました。
男は笑顔のまま、「何をです?」と答えました。
その時、船内放送が流れました。乗船開始の案内です。私はコップを置き、列へ向かいました。男はついてきませんでした。
安心したのは、船に乗ってからです。
ところが、出港してしばらくすると、船内放送が私の名前を呼びました。落とし物の連絡だそうです。案内所には、あの男が立っていました。
彼は私の座っていた場所を知っている。薬のことも、たぶん。
そして、私が飲み物を捨てたことも見ていたはずです。
放送はもう一度、私の名前を呼びました。
今度は、案内所からではありませんでした。すぐ後ろのスピーカーから、私の名前を呼ぶ声がしました。船内の誰にも、私がここにいるとは伝えていませんでした。
座席のテーブルには、いつの間にか紙コップが置かれていました。
中身は、まだ湯気を立てていました。
後日談:
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