
資料館の地下で、古い地図を乾かす手伝いをしたことがある。
梅雨が明けたばかりの午前で、外は朝から蒸していた。修復室には窓がなく、除湿機の低い唸りがずっと続いている。私は短期職員で、向かいの台にいた三浦さんは、地図の扱い方を教えてくれる年上の人だった。
その日は、濡れて波打った大きな地図を、金属の乾燥棚に広げていた。地図の端が丸まらないよう、重しを置き、棚に吊るした紐を少しずつ調整する。単純だけれど、紙を破かないよう気を遣う作業だった。
三浦さんが、棚の奥にある道具を取ってくると言って部屋を出た。私は一人で、地図の端を押さえながら乾燥機の設定を見ていた。
そのとき、棚の向こうから三浦さんの声がした。
「そこ、手を離して大丈夫」
声はすぐ近く、地図の向こう側から聞こえた。私は反射的に返事をしそうになったが、なぜか言葉が喉に引っかかった。
代わりに、地図を見た。
押さえていた端が、私の指の下でゆっくり持ち上がっている。風が吹いているわけでもないのに、紙が内側から膨らむように浮いていた。指を離したら、棚の向こうから誰かが手を差し入れてくる。そんな想像が、急に頭から離れなくなった。
「早くしないと、折れちゃうよ」
また三浦さんの声。さっきより近い。
私は返事をせず、地図の端を押さえ続けた。すると棚の奥で、紙を撫でるような音がした。ざり、ざり、と乾いた指先が地図の裏をなぞっているような音だった。
やがて、部屋のドアが開いた。
「ごめん、道具が別の階だった」
本物の三浦さんが戻ってきた。棚の向こうの声は止み、地図の端も、いつの間にか平らになっていた。
私は事情を話せなかった。変なことを言えば、疲れていると思われるだけだろう。作業が終わるまで黙っていて、昼休みにようやく、棚の向こうから声がしたことを伝えた。
三浦さんは、すぐには答えなかった。それから、私が押さえていた地図の端をじっと見て言った。
「声がしても、返事しなかったんだね」
「うん。でも、三浦さんの声だったよ」
「そう。私も昔、ここで同じ声を聞いたことがある」
三浦さんは、修復室の鍵を机に置いた。
「だから、あそこに入るときは、誰かが中から呼んでも答えないことにしてる。名前を呼ばれてもね。返事をした人は、次に聞こえる声が自分の声になるから」
私は笑えなかった。
数日後、資料館から電話が来た。三浦さんが急に退職したという。理由は聞かされなかった。
あの日、帰り際に彼女が私に言った言葉を、何度も思い返している。
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