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長編

日本101名山

しもやん 2024年8月26日
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 日本百名山という山岳格付けがあることをご存じだろうか。その名の通り、日本の名山を100座リストアップした一種の登山指南である。  火付け役は深田久弥という小説家だ。全国津々浦々の山を巡った自身の登山体験をもとに、標高、地域性、山容の美しさなど多岐にわたる評価項目をベースにして執筆した随筆がもととなっている。  その随筆が〈日本百名山〉と銘打って出版されている。初版は1964年とすでに古典の領域に入っている書籍であるが、多くの山屋に愛読され、いまなお読み継がれて版を重ねている。  出版当初はいち文筆家の見解にすぎない単なる娯楽読み物であったのだが、いつしか本書は登山界隈においてバイブル的扱いを受け始める。しまいには百名山完登に生涯をかけて取り組む百名山ハンターまで現れるほどの盛況ぶりとなる。  以下に記すのは、わたしが若いころに遭遇した百名山ハンターにまつわるエピソードである。      *     *     *  全盛期であった20代後半、わたしは暇さえあれば中央アルプスへ歩きに行っていた。なかでも空木岳(2,864メートル)は日本アルプス初挑戦の山とあって、非常に思い入れの深い山である。  10年ほど前の盛夏のある日、わたしは例によって池山尾根から空木岳をハントし、山頂で微風に吹かれていた。宇宙空間が透けて見えるような快晴で、多くの人びとが登頂しては下山していく。  人びとの様子を漫然と眺めていると、一人の壮年男性が颯爽とした足取りで山頂へやってきた。日に焼けた顔、筋肉は弓のように張り、健康そのものといった風貌だ。方角的に中央アルプスの稜線を縦走してきたのだろう、装備は軽装で、真っ赤なウィンドブレーカーを羽織っていた。  壮年男性はどっしりと腰を下ろしているわたしを認めると、「まいどおおきに」と快活に声をかけてきた。 「ホンマええ天気でんな。あっちのほうの山、名前わかりまっか?」  わたしは赤柳岳や南駒ヶ岳がどれにあたるか指し示してやった。彼は目を輝かせて聞き入り、山岳名を覚えようとしているのだろう、何度も山の名前をもごもごとくり返しつぶやいている。  男性は和泉と名乗ったあと、腕を十字に組んでストレッチをしながら唐突に切り出した。 「実はわし、百名山やってん」  驚くべきことではなかった。空木岳は百名山に指定されている。百名山で百名山ハンターに出会うのはごく自然なことだ。 「何座まで達成したんです」  あいさつ代わりに聞いてみた。一種の礼儀のようなものである。 「終わった」 「終わった?」 「せやから、百名山は全部登ったいうこっちゃ」  話が見えてこない。百名山完登を成し遂げたあとの気楽な山行なのだろうか? 「なぜ今日は空木岳に?」  和泉さんはわざとらしくトーンを落とし、秘密めかした雰囲気を作った。 「なあ兄ちゃん。アンタ101名山って知っとるか」 「聞いたことないですね。200名山の最初の1座とか、そんなような意味ですか」 「ちゃうちゃう。百名山枠でもう1座あんねん」  和泉さんはザックから書籍を取り出した。使い込まれているのか、表紙のカラー印刷ははげ、各ページも水濡れのせいで波打っている。  もちろん書籍名は〈日本百名山〉。劣化が激しいこと以外はなんの変哲もない、どこにても売っているありふれた本だ。 「これに書いたるさかい。いちばん最後のページや」  わたしは訝しみながらも目次を確認した。すると100番めの宮ノ浦岳の後ろに、101番めの山岳名が確かに記載してある。〈禍嶺〉と書いてあったと思う。ルビは〈まがつみね〉と振ってあったとおぼろげながら記憶している。聞いたことすらないが、どことなく不吉な山名だ。  ページをめくっていく。ところどころ糊で張りつけてあるのか、容易には開けそうもない部分があった。本全体が赤黒く変色しており、あまり長く触っていたいとは思えない代物である。 〈禍嶺〉のページを開こうとすると、糊が剥がれるベリベリという不快な音が鳴った。所有者のほうを見る。彼はかすかにうなずいた。このまま強引に開いてもよいらしい。 「なんでこんな風にへっついてるんです」 「もらったときからそうなってんねん」  わたしは彼の顔をまじまじと見つめた。「もらった……?」  和泉さんが語ってくれた劣化の激しい〈日本百名山〉と〈禍嶺〉のエピソードは大意、以下の通りである。      *     *     *  事情通の百名山ハンターのあいだには、101番めの〈禍嶺〉が紹介されている幻の〈日本百名山〉が存在するというまことしやかな噂がいつのころからか、囁かれ始めていた。  噂によれば同書の売れゆきが伸びて増刷がかかった第4版改定時に〈禍嶺〉は足されたのだが、青焼きの段階でチェックミスが起こり、最終的に大量の未改定本が世に出回ってしまった。これは〈禍嶺〉が足された最終折が差し替えられないまま印刷されたために起こった生産事故である。  しかしごく一部の増刷本は深田久弥の意図通りに改定され、現在でもほんの数冊が市場に流通している。幻の第4版はその希少性ゆえ、オークションサイトにも出品されることはまずない。 〈禍嶺〉には登頂条件がある。百名山を完登した者でなければ決して挑戦してはならないのだという。この山は禍々しい瘴気に満ちており、初心者が安易に登れば山に取り込まれてしまうというのがその理由である。 〈禍嶺〉は国土地理院の地形図にはポイントされておらず、名前のない無名峰としてしか記載されていない。標高は2,400メートル台で、日本アルプスのどこかにひっそりと佇んでいる。  和泉さんは偶然本書を手に入れる僥倖に恵まれた。光岳の山小屋に泊まった際、「俺は〈禍嶺〉に登ったからもういらない」という理由で同宿の山屋から譲り受けたのだそうだ。  その山屋はこう続けたという。「第4版はババ抜きのジョーカーみたいなもんだ。101座めに登ったあともこの本を持ち続けていると、必ず不幸が訪れる。それでもいいならもらってくれ」  和泉さんは逡巡した挙句、呪われた第4版を受け取ったそうだ。  101番めの百名山に登る条件は2つ。①幻の第4版を入手している、②百名山をクリアしている。これら困難な条件を達成した者だけが〈禍嶺〉に登頂できるのである――。      *     *     *  尋ねたいことが山ほどあったが、とりあえず101番めのページを開くことにした。なるべく紙が破れないよう、慎重に剥がしていく。  当該ページは粘性の液体によって赤黒く変色しており、ほとんどなにが書かれているのか判別不可能であった。右上に小さく山の位置を示す地形図が載っており、そこだけはかろうじて判読できた――はずなのだが、〈禍嶺〉の位置をわたしは完全に忘れてしまっている。  地形図のキャプションに長野県という文字が入っていたことだけは確かだ。それ以上の情報は不可解なことに、まったく覚えていない。〈禍嶺〉に対してとてつもなく不吉な印象を抱いたことだけ、鮮烈に脳裏に刻まれている。  わたしはどうコメントしてよいかわからないまま、幻の第4版を和泉さんへ返そうとした。彼は受け取ろうとしない。 「なあ兄ちゃん、アンタ百名山やってへんのか」  首を横に振り、本を押し付けるようにして返した。和泉さんは渋々受け取ったが、眉間に皺を寄せて思いつめたような表情をしている。  彼の鬼気迫るような様子からようやく察した。「〈禍嶺〉に登ったんですね?」 「見るか、写真」  和泉さんはデジタルカメラに保存された写真を見せてくれた。 〈禍嶺〉はとても現実の存在とは思えなかった。写真は中腹あたりの開けた小ピークから山頂を見上げているものであった。木々は不自然にねじくれ、葉は目に痛いような紅色、空も夕焼けとはどこか違う赤みがかった不吉な様相を呈していた。生命の伊吹は感じられず、虫1匹棲息しているようには見えなかった。  見ているだけで鳥肌が立つような、禍々しい写真であった。 「わしはこれ以上不幸になりたない」肩を掴まれ、前後に揺さぶられた。「誰ぞおらんのか、百名山やっとる友だちとか」  わたしは刺激しないよう彼をそっとふりほどき、荷物を大急ぎでまとめた。 「あの山に登ってから、わしの人生ムチャクチャになってしもた」  和泉さんは独り言を延々とつぶやいている。 「親兄弟、嫁はん、子ども。みんな死んでしもた。次はわしの番や。――夢を見んねん。死んだ連中が手招きしとる夢や。そいつらどこで手招きしとると思う。〈禍嶺〉や。〈禍嶺〉の山頂からわしを手招きしよる」  去り際、わたしはどうしても聞いておきたかったことを尋ねた。なぜいわくつきの第4版を譲り受けたのか? 和泉さんは当然だとでもいうかのように、呆れ返った様子でこう答えた。 「誰も知らへん101番めの山に登れるんやぞ?」      *     *     *  わたしは百名山にこだわった山屋ではない。自分の好きな山域を集中的に開拓し続けるフリーク型の山屋である。そうした事情もあり、百名山のいずれかの山に登る機会は少ない。  それでもときおり、遠征する際に意図せず百名山に登ることもある。山頂に立つと決まって和泉さんのことを思い出すのだ。呪われた書物を後継者に渡そうと血眼になっている彼の姿を。  なぜ和泉さんは幻の第4版をオークションサイトで売ってしまわなかったのだろう? 売れないのなら、なぜ燃えるゴミの日に出してしまわなかったのだろう?  彼はこう言っていた。誰も知らない101番めの山に登れるのなら、どんな条件でも呑むのが山屋の矜持であると。読者はどう思われるだろうか。人口に膾炙していない孤高の山に登るため、不幸を呼び寄せる(という触れ込みの)書物を進んで引き受けたがるのがまともな感性なのだろうか。  まともでない感性を持った人間はしばしば、狂信的な信仰心を持つことがある。彼にとっての〈日本百名山〉第4版は、キリスト教徒にとっての新約聖書に等しかったのではないだろうか。聖書を捨てたり売ったりするキリスト教徒はいまい。それを手放す方法はただひとつ。正規の手続きを踏み、所有する資格のある者に納得のうえで譲渡する。これ以外の方法はすべて〈日本百名山〉第4版に対する冒涜になるのだろう。  幻の第4版や〈禍嶺〉が本当に存在するのか、わたしは寡聞にして知らない。写真と本が捏造だった可能性はある。すべて和泉さんの妄想の産物でないとは言い切れない。あまりにも現実離れしすぎている。  彼の主張した101番めの〈禍嶺〉が存在するにせよしないにせよ、わたしには確信がある。和泉さんを不幸のどん底に叩き落したのは、呪われた第4版でも例の不吉な山でもない。  彼は日本百名山という概念そのものに憑かれているのだ。

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