
閉鎖されたフェリーターミナルの備品整理を手伝ってほしい、と元職員の久美さんに頼まれた。
断る理由はなかった。市の資料室で働く私は、古い施設の帳簿を整理するのが仕事だ。久美さんは退職前、そこの窓口を長く担当していた。
ただ、弟さんの話をされるのが少し苦手だった。
弟の修司さんは三年前、夜の便から戻らなかった。荒天で船が出なかった日、港の防波堤で転落したらしい。遺体が見つかったのは翌朝だった。
「今日は、あの子の分も切符を用意しておくね」
ターミナルに着いてすぐ、久美さんはそう言った。
「誰の分ですか」
「修司。いつも帰りの便は二人分だったから」
彼女は笑って、窓口の引き出しから色褪せた乗船券を一枚取り出した。
外はよく晴れていた。冬の陽がガラス張りの待合室に差し込んでいるのに、建物の中は底冷えした。暖房は止まっていたし、海側の扉も施錠されていた。
私たちは受付の書類を箱に詰め、古い時刻表を外した。久美さんは手際よく動きながら、何度も誰かに話しかけた。
「修司、そっちは後でいいよ」
「その箱、重いから持たなくていいって」
返事はない。
作業を始めて一時間ほど経った頃、私は床に濡れた跡を見つけた。
待合室の端から、窓口の脇まで。裸足の足跡が、ひとつずつ続いていた。
けれど足跡は窓口の手前で途切れている。床は乾いていて、窓も扉も閉じていた。外から海水が入り込む場所はない。
「床、濡れてますよ」
久美さんは足元を見ずに答えた。
「修司は、帰ってくるといつも靴を脱いだの。濡れたまま上がると怒られるからって」
言い方があまりに普段どおりで、私はそれ以上聞けなかった。
昼を過ぎ、最後に窓口の引き出しを調べた。奥から、日付の入った小さなメモが出てきた。三年前の事故の日のものだった。
『修司 最終便 欠航』
その下に、久美さんの字でこう書かれていた。
『待合室にいる。濡れているのでタオルを出す』
「これ、事故の日の記録ですか」
尋ねると、久美さんはメモを見て、静かにうなずいた。
「そう。あの日、あの子はここに帰ってきたの。なのに誰も気づかなかった」
その時、窓口の向こうで、紙を一枚ちぎる音がした。
久美さんが乗船券を切り離していた。
一枚は自分の上着のポケットへ。もう一枚は、窓口の向こう側へ差し出した。
「修司、今日はこの人も一緒に帰るからね」
私は返事をしなかった。代わりに、床を見た。
乾いた床に、濡れた足跡がもう一組増えていた。窓口の向こうから出て、私の靴の前で止まっている。
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