
長編
中央アルプスフリーク
しもやん 2024年4月7日
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日本アルプスのうちでどこが好きかと聞かれれば、わたしは迷わず中央アルプスだと答えるだろう。
荒々しい岩稜と多数の名峰を擁する北アルプスでも、手つかずの自然が残っている南アルプスでもない。山脈の規模が小さい、3,000メートル峰がない、ロープウェイで庶民化されたなどと散々な言われようの中央アルプスが、なぜか好きなのだ。自宅からもっともアクセスがよいというのもあるのだろうが、山脈自体がコンパクトにまとまっており、日帰りでもアプローチしやすい点は長期休暇の取りづらいサラリーマンにとって、心強い味方である。
どの山域にもフリークはいるものだ。そのエリアを知り尽くし、一般登山道はもちろんのこと、バリエーションも数多くこなす一種のマニア。この手の山屋は愛着を持った山域に入り浸っているので、そこへ行けば高確率で顔を合わせることになる。
若いころは横溢する体力を持て余し、夏季ともなれば毎週のように中央アルプスへ出かけていったものだ。
そこでわたしは、一人の中央アルプスフリークと出会うことになる。
* * *
わたしは30歳前後の全盛期のころ、中央アルプス南部をよく攻めていた。檜尾岳、空木岳、南駒ヶ岳、仙涯嶺、越百山。ロープウェイの架設された北部の賑わいから隔絶され、森閑と静まり返った南部は、人混み嫌いのわたしにとって居心地のよいフィールドであった。
その日は確か9月の下旬で、カラリと晴れ渡った絶好の登山日和だったと思う。木曽谷から南駒ヶ岳へ至り、さらに北上して赤梛岳~空木岳をハント、駒峰ヒュッテで一泊後、木曽殿越えから木曽谷へ下山するというコース取りだった。
9:00ごろ木曽谷の駐車場を出発し、終始急登の南駒ヶ岳への登りを無心になってこなす。直下のハイマツ漕ぎで体力を根こそぎ持っていかれ、南駒ヶ岳(2,841メートル)に這い上がった時点で14:30になっていた。ザックを下ろして心地よい風に吹かれていると、南側の越百山方面から単独の男性が登ってきた。
短く刈ったごま塩頭に迷彩柄のバンダナを巻き、東条英機のような縁なしの眼鏡をかけた初老の男性。わたしはこの人物と会うのがこれで4回目だった。それもすべて中央アルプスである。特徴的な見た目なのでいやでも覚えてしまい、2回目以降はそれとなく意識するようになっていた。眼鏡の形から、わたしは彼のことを心中で〈東条さん〉と呼んでいた。
東条さんもわたしを覚えていたのだろう。陽気に片手を挙げた。「また会ったね、青年」
わたしはぺこりと頭を下げて応えた。「どうも、ご無沙汰してます」
彼は3,000メートル級の山に持っていくには小さすぎるザックを無造作に投げ出し、わざとらしく息を吐いた。
ここからはお定まりの会話が始まった。どこからアプローチしたのか、登山道の状況はどうか、コマクサやチングルマは咲いているか、これからどこまで行くのか、木曽谷アプローチは林道歩きが長すぎる、檜尾小屋を有人化したらもっとこの山域は盛り上がるはずだ(驚くべきことに、これはのちにクラウドファンディングによって実現する)、など。わたしは誘惑に勝てず、気になっていたことを聞いてみた。
「中央アルプスでよくお見かけしますね。この山域がお好きなんですか?」
「まあ……好きというか、なんというか」
てっきりフリーク特有の熱意が吐き出されるものと思っていたのだが、東条さんの歯切れは悪い。
「どういうことです」
「青年は中央アルプスが好きかい」
「まあ、そりゃ。ヤマヒルも出ませんしね」
東条さんは水筒からお茶を注ぎ、対岸の南アルプスの稜線を眺めている。心だけどこか遠くへ飛翔しているかのようだ。
「ずいぶん前のことだけどね。俺には登山仲間がいた」
彼は問わず語りにぽつりぽつりと話し始めた。
* * *
東条さんには若いころ、ともに山を極めんとする児玉さんという同士がいた。
二人は奥穂高~西穂高縦走や剱岳の北方稜線など、難ルートをあらかたクリア、その後は沢登りやバリエーションにも挑戦し、山屋としてのキャリアを着実に積んでいた。
そんな彼らですら、いつかはミスを犯すものだ。山行中絶えず集中し続けることは不可能である。山に入っている時間が長ければ長いほど、事故に遭う確率は高くなる。それは難ルートで起こるとは限らない。むしろなんの変哲もない一般道で起きることのほうが多いのだという。
事後現場は中央アルプスの仙涯嶺直下。その日二人は〈たまには気楽な山行を〉という趣旨で、越百山を基点として空木岳に至り、木曽殿越えを経由して下山するルートを考えていたそうだ。
仙涯嶺(2,734メートル)は中央アルプス南部のオベリスク的な山で、直下には垂直に近い岩場がある。とはいえホールドも豊富で、難易度は決して高くない。ただ時期が悪かった。11月下旬、岩場の表面はクラストしており、慎重なムーヴが求められた。
東条さんが先にアプローチし、ピッケルとアイゼンを駆使して危なげなくクリア。児玉さんもそれに続く。彼が登り始めたのとほぼ同時に、風速30メートルはあろうかという強風が上で待っていた東条さんを襲った。よろめいた彼は拳大ほどの岩を蹴り落としてしまった。
まるで岩と児玉さんのあいだに糸でも結ばれているかのように、それは登攀中の相棒の額を直撃した。それだけで十分だった。数メートルほど下に叩きつけられた児玉さんの身体は勢いを殺し切れず、そのまま雪をかぶって摩擦係数ゼロの滑り台と化したハイマツ帯へと消えていった。
携帯電話もなかった時代である。自力救助は困難と判断した東条さんは単独で下山し、警察へ通報。大規模な捜索が行われたものの、結局児玉さんの消息はわからずじまいなのだという――。
* * *
「児玉さんをいまでも探しに来てるんですね」
「まあ、そんなところだね」東条さんの歯切れは悪かった。「つまらん話をしちゃったな」
わたしたちはそこで別れた。東条さんはこのまま南駒ヶ岳の山頂で適当にビバークする由。なんでも寝転がるのにちょうどよい塩梅の薄い岩があるのだとか。ベテランのビバークは次元が違う。
その話を聞いた夜、駒峰ヒュッテで布団にくるまりながら決意を新たにした。
〈これからも単独登山を貫徹しよう〉
わたしのような技量の低い人間は、自分の命を守ることすら満足にできないことがままある。他人の命まで気にかけている余裕などあるはずがない。
わたしは山でろくに眠れたためしがない。その日は後味の悪い話を聞いたせいで余計に目が冴えてしまっていた。まんじりともしないまま幾度も寝返りをうちながら、些細なことが気になった。
なぜ東条さんはわざわざ南駒ヶ岳までやってきたのだろうか。仙涯嶺直下が事故現場なのだから、そのあたりを徹底的に捜索すればよさそうなものだ。
* * *
去年の夏、久しぶりに中央アルプス北部の縦走をしていたときだ。
島田娘(2,858メートル)の直下あたりで、わたしは東条さんと5度めの邂逅を果たした。あれから加齢とともに同山域へのアプローチ回数が減ったとはいえ、毎年必ず2度は訪れていたのだが、彼には一度も会わなかった。実に数年ぶりの再会である。
「やあ青年。元気かい」
「おかげさまで。ここ最近見かけませんでしたが、どうしてたんです」
「見つかったんだよ、児玉が」やけに彼は嬉しそうだった。「だからもう、血眼になってここらあたりに登らなくてもよくなってね。今日は純粋に山を楽しみに来てるんだ」
心から彼の冥福を祈った。「児玉さんは、どこで……?」
「あの野郎、のんきに檜尾小屋に泊まってやがった」
記憶している限りでは、確か仙涯嶺で滑落したという話だったはずだ。檜尾小屋は仙涯嶺から数キロメートル以上も離れた位置にある。これは遺体を一時的に収容した場所だ、という意味なのだろうか?
わたしは首をひねりながら暇を告げた。「ご冥福をお祈りします」
「ああ、ありがとう。きっとやつも浮かばれるよ」
島田娘を下りながら、わたしは身の毛のよだつような可能性に気づいた。
事故の当事者は、逆だったのではないか? 東条さんが滑落した側で、児玉さんが岩を落とした側だったのでは? 山で起きた事故は生存者の証言を信じるしかない。過失とはいえ人を死なせた(と思い込んでいた)児玉さんが、下山後に法的な制裁を恐れて本件をうやむやにした可能性は十分考えられる。
彼は万が一相棒が生きていることを考慮し、生活圏から姿をくらませた――。
仮にそうだとして、それではなぜ東条さんは自力下山後、家族や友人に児玉さんの行方を尋ねなかったのか。なぜ関係者に児玉さんの不誠実な対応を吹聴しなかったのか。
東条さんは復讐を誓っていたのかもしれない。みずからの手で、かつての相棒に罰を下すのだと。そのためには彼が生きていることを児玉さんに知られてはならない。
瀕死の重傷を負って血まみれになりながらも、相棒への恨みを募らせながら執念で下山する若き日の東条さんの姿が、脳裏にありありと浮かぶ。
山屋は山に登ることでしか己が生きていることを自覚できない哀れな人種である。どれだけ忌まわしい記憶があろうとも、いつか必ず山へ戻って行く。それはもはや習性に近い。渡り鳥が遠く離れた営巣地に戻ってくるようなものだ。児玉さんも何十年も前のことだという油断があり、古巣の中央アルプスに凱旋を果たした――。
以上の予想はすべてわたしの妄想である。
それでもわたしはどうしても、東条さんの去り際の台詞が気になって仕方がない。
「きっとやつも浮かばれるよ」
児玉さんが亡くなったのはいつなのだろう。わたしはそれが、数十年前であってほしいと切に願っている。
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