
市の広報誌を作っている叔母から、古い排水機場の写真整理を手伝ってほしいと言われたことがある。
その施設は干拓地の端にあった。春先の午後で、霧雨が止んだばかり。叔母と、設備点検の経験があるという西尾さん、それに私の三人で、閉鎖前の建物を撮影しに行った。
機械はもう撤去されている。残っているのは、コンクリートの床と、壁に取り付けられた水位記録板くらいだった。板には細い溝が何本も刻まれていて、かつて水位を手で記録した跡だと西尾さんが教えてくれた。
「この施設、記録に妙なところがあるんだよ」
叔母が古い台帳を開いた。ある年の一週間だけ、毎日の水位欄が空白だった。事故の記録も、故障の記録もない。なのに、その期間だけ日付の横に小さく「三名、確認」と書かれていた。
「何を三人で確認したんですかね」
私が聞くと、西尾さんは笑って、金属板を指で弾いた。
カン、カン、カン。
「ここは音がよく響く。昔の人が遊んだんじゃないか」
そう言って、彼は板をもう一度叩いた。今度は二回だった。
建物の裏手に、地下へ降りる点検階段があった。入口には立入禁止の札が残っていたが、扉は半開きだった。叔母は撮影だけなら、と階段の上から中を覗いた。私は霧雨の水滴が落ちる床を気にしていたが、西尾さんはさっさと降りていった。
「下に古いポンプの銘板があるかもしれない」
叔母が止めたけれど、彼は返事をせず、暗がりに消えた。
しばらくして、階段の下から短い悲鳴が聞こえた。
叔母と私は駆け下りた。西尾さんは踊り場に座り込んでいた。顔色は悪かったが、すぐに立ち上がり、「段差を踏み外しただけ」と言って笑った。
そのとき、私は彼の右手が濡れているのに気づいた。床は乾いている。尋ねる前に、西尾さんは手をズボンで拭いた。
帰ろうとしたが、階段を上がると、建物の中の同じ廊下に出た。入口の扉も、さっき撮影した水位記録板もある。
「逆から回ったんだろ」
西尾さんはそう言った。けれど、地下へ降りた階段は廊下の奥に見えている。私たちは同じ場所を一周したらしい。
二度目も、三度目も、階段を上がると記録板の前に戻った。窓の外は暗くなり始めていた。携帯電話は圏外。叔母は焦っていたが、西尾さんだけは妙に落ち着いていた。
「音を覚えればいい。ここは音で場所が分かる」
彼は金属板を叩いた。
カン、カン。
間を置いて、もう一度。
カン、カン。
「さっきと同じだ」
私が言うと、西尾さんは首を振った。
「違う。三回目がない」
後日談:
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