
長編
心象風景
匿名 2016年10月9日
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まだ学生の頃、夏休みも終わりに近づいたある日の午後、私は山上湖に釣りに行く事にした。
家から車で2時間程度で行けるその湖は山上のダム湖であるが、先に手前にあるもう一つのダム湖が見えてくる。皆この下のダムで遊ぶため上のダム湖までは人はほとんど入って来ない。ここから先は悪路を進む。
車が離合出来ないほど狭い道幅の砂利道を進み続け、昼でも薄暗い林の中を抜けると山上湖に辿り着き、一面に清らかな景観が広がる。少し湖畔沿いに進んだ所で道の脇に車を停めた。
湖面に突き出した形で小さなお堂がある。敷地の側面と背面は湖に面しており、真ん中に古い木造のお堂が置かれている。お堂の扉は閉まったまま朽ち、使われている形跡は無い。周囲の水際は石垣で、水面から1メートル程の高さがあり、間際の水深は水底が見えるか見えない程度である。
直ぐ横には小川が流れ込んでおり、景色も足場も良く、このお堂の周りは私のお気に入りの場所だった。辺り一帯には民家も人の気配も無く、凛とした自然が広がっている。
午後3時頃から時間を忘れて釣りと景色を楽しんでいた。小川のせせらぎ、小鳥の鳴き声、西日に美しく染まりだす湖面を気持ち良さげに蜻蛉が飛んで行く。釣果も上々で本当に心地良い時間が過ぎて行った。
やがて暗くなり、夜釣りの前に夕飯にしようと車に弁当を取りに戻った。ここへ来る途中のコンビニで買った弁当とジュースを取り出し、そして車のトランクからランタンとレジャーシートを出そうと車の後ろに回った。
トランクを開けようとした時、水面の向こう側に動く白い影のようなものが見えた。湖畔沿いにカーブになっている道の先からこちらに向かってゆっくりと進んでくる。車ほど早くは無く、ライトも付けず音もしない。人よりはかなり大きく見えるぼんやりとした白い塊がゆっくりと此方に向かって進んで来ていた。
正体が把握出来ず、少し嫌な感じがした。しかし今までの楽しい気持ちがまだ勝っていた。
ランタンとレジャーシートをトランクから取り出し、私はやや早足で車からお堂の方に戻った。お堂の裏側にレジャーシートを広げ腰を下ろし、ランタンに火を灯した。一息ついて弁当に手を掛けながらも考えていた。何のなのだろう…辺りの雰囲気も手伝ってか、どうしても異様なモノに思えてくる。
耳を澄ますが何の音も気配も無い。アレはもうお堂の正面付近の道に到達している筈だ。付近に誰かが来たような感覚は全く無い。風も無く、僅かに虫の鳴き声と小川のせせらぎだけが聞こえてくる。
振り向いて立ち上がり数歩進んでお堂の背面に近づく。お堂の裏側に居るので停めている車や付近の道はお堂に隠れて見えない。もう通りすぎて行ったのかな…と思い始めていた。
「バン!…バタン!!」
不意に大きな音が目の前のお堂で響いた。五感を研ぎ澄ましている中で突然に目と鼻の先で起こった大音に驚き硬直していた。
中に人が居た筈はない。ボロボロの扉はずっと開いた形跡が無いし、もし人が居ればとっくに気が付いていた筈だ。しかし今の音は…誰かが…あの得体の知れない白い何かが正面の扉からお堂の中に入った音に思える。大きな不安が襲って来た。
お堂の背面の壁を凝視していた。息を殺して板張りの壁の向こう側の気配を探った。…何の音も聞こえて来ない。胸の鼓動は聞こえそうな程大きくなる。辺りは闇に包まれ背後に置いてるランタンの灯りが私の影を壁面に映している。
「!!!」
私は凍りついた。全身の毛が逆立つ感覚がした。壁には私の他にもう一人の人影が、私の影から別れるように揺らめいたのだ。
気付かれずに私の背後に人が周り込めるような場所ではない!しかも手が届きそうな直ぐ真後ろにいる!そして異様に大きい!恐怖の余り私は声にならない叫びをあげて走り出していた。
お堂の側面を周り車に向かおうとした。足がもつれて思うように走れない。あっ!と思った時には私の体はお堂の横の石垣の上から湖面に転落していた。
混乱して水中でもがいた。あちこちに体をぶつけながらも石垣に捕まり立つ事ができた。水深は私の首の下あたりまでだった。
慌てて石垣に沿って小川の流れ込みから岸に上がろうと進んだ。足元に何かが絡みついてくる。それは私を水中に引きずり込もうとしているように思え、さらに私を混乱させた。無我夢中で足掻きながら進んだ。
ようやく水から上がり、藪を掻き分け、転がるように道に走り込んだ。停めている車が見える。駆け寄ろうとするとその向こうのお堂が見えた。私は足を止めた。
お堂は周囲全体が白い霞に覆われて闇の中に浮かび上がるように見えていた。その中心には異様な大きな影がゆっくりと道に向かって歩み出していた。突然、私に気が付いたようにその体を此方に向けた!
反射的に私は車と反対方向に逃げ出した。服も靴もずぶ濡れであったが、構わずに息が上がるまで走り続けた。
振り返り後方を確認すると闇と静寂が広がるのみで、追ってきている感じは無かった。湖面近くの大きな岩陰に座り込み身を潜めた。
…どのくらいの時間が経っただろう…少し落ち着いて来てポケットを探った。携帯電話は濡れて動いていないかった。どのみち圏外ではあったが時間を知る事さえ出来なかった。
…⁈ 車のキーが無い。逃げる時に落としたのか…それでも今あの場所に戻るなどとは考えもしなかった。日が登って明るくなるまでは…もう動く気力も無かった。ただじっと、お堂がある筈の方向を見つめていた。注意深く、ただじっと…
満月に見える月が湖面を照らし、辺りの風景と静寂が幻想的な雰囲気を醸し出していた。なぜか涙が溢れてきた。本当にこの世の物で無い程に美しく思えた。
その幻想的な風景は今でも私の心に鮮明に焼き付いている。私に向かってくる人外の巨大な影の恐怖の記憶と共に。
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