
私は自治体の防災資料室で、古い放送テープをデータ化する仕事をしている。
海沿いの町にあった旧庁舎は取り壊され、資料室は高台の新庁舎に移された。仕事は単調だ。テープを機械にかけ、音を確認し、欠けた箇所に印をつける。窓の外には海も見えない。
真夏のある日、雲ひとつない正午過ぎに、録音室のガラス越しに男が立っているのが見えた。
灰色の作業着に、首から古い社員証を下げている。見知らぬ顔だった。ここは職員証がないと入れない。受付から連絡もない。
「沿岸向けの放送、まだ出してないんですか」
男は録音卓を見ていた。声は急かすでもなく、確認するような調子だった。
「あの、どちらさまですか」
私が席を立つより早く、隣の席の技師、野上さんが答えた。
「さっき全地区に流しましたよ。もう大丈夫です」
男はほっとした顔をした。「そうですか」と小さくうなずき、廊下の角へ歩いていった。追いかけてみたが、廊下には誰もいなかった。
入退室の記録にも、男の名前はなかった。
「今の人、誰ですか」
「昔ここにいた放送担当。佐伯さん」
野上さんは作業を続けながら言った。
「十六年前、台風で川があふれたときに、避難放送をしていて亡くなったの。旧庁舎の地下に水が入ってね。放送が最後まで届いたか、ずっと気にしていた人だった」
私は、正午の青空を思い出した。台風の気配などどこにもない。
「じゃあ、さっきのは……」
「たまに来るのよ。あの人には、放送がまだ終わっていないんでしょうね」
野上さんは、彼が現れるたびに「全地区に流した」と答えるのだという。そうすれば、安心して帰っていくから。
その日の作業は、佐伯さんが最後に担当した放送テープだった。記録上は、避難を呼びかける声が途中で途切れている。私はノイズを抑えて聞き直したが、やはり最後は砂嵐のような音だけだった。
念のため、修復した音声を保存して再生する。
途切れたはずの箇所で、スピーカーが一度、乾いた音を立てた。
『……こちらの放送室にいる方も、聞こえていますか』
私は思わず「聞こえてます」と答えた。
その瞬間、録音室の赤いランプが点いた。マイクの電源は切っていた。
再生中の音声の奥で、佐伯さんが静かに言った。
『確認しました。まだ、そこにいるんですね』
後日談:
後日談はまだありません。
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