
水槽の音は、魚の尾がガラスに当たる音ではなかった。
昼の二時を少し過ぎたころ、私は閉館中の水族館で、濾過装置の点検表をつけていた。冬の平日で、客はほとんどいない。屋上の修理工事の音が、ときどき建物を低く揺らしていた。
その合間に、三回。
コン、コン、コン。
水槽の内側から、誰かが指で叩いたような音がした。
音のした水槽は、展示を止めているクラゲの予備槽だった。中は空で、水も抜いてある。私は点検表を置き、飼育員用の鍵を探しながらバックヤードへ向かった。
扉の向こうに、濡れた長椅子があった。
そこに兄が座っていた。
兄は七年前に死んだ。海沿いの道路で事故に遭った。私はそのころ高校生で、最後に交わした会話は、兄が貸した自転車の鍵を返せという、どうでもいい話だった。
兄は、昔と同じ紺色の上着を着ていた。髪の先から水が落ちているのに、床は濡れていない。
「……なんで、ここにいるの」
兄は答えず、長椅子の隣を手のひらで軽く叩いた。
座れ、ということらしい。
私は座らなかった。近づけば消える気がしたし、近づかなくても消える気がした。
「お母さん、去年から一人で買い物行けるようになったよ。歩くの遅いけど」
兄はうなずいた。
「私も仕事、続いてる。魚の名前、まだぜんぜん覚えられない」
また、うなずく。
目の前にいるのが兄だと、疑う余地はなかった。笑うときに片方だけ上がる口元も、聞くときに顎を少し引く癖も、記憶の中のままだった。
私はそこで初めて、兄の手に気づいた。
両手の間に、古い紙片を挟んでいる。水族館の昔の入館券だった。兄が生きていたころ、私たちが子どもの日に来たときのものだ。裏には、私の字で「次はイルカのショー」と書いてある。
「これ、どこにあったの」
兄は紙片を見て、ほんの少し笑った。
私は、あの日のことを覚えていた。ショーは機械の故障で中止になり、兄は代わりに閉館間際のペンギンを見せてくれた。帰り道、兄は笛を吹いて、横断歩道の信号が変わるのを待った。あの笛は、いまも母の家の引き出しにある。
「ねえ。あのとき、鍵のこと、怒ってたわけじゃないんだ」
言ってから、何年もそのことを気にしていた自分に気づいた。
「返してくれればいいって、それだけだった。なのに、最後に変な言い方してごめん」
兄は紙片を折らないよう、指で端を押さえた。
それから、空の水槽のほうへ目を向けた。
また三回、音がした。
コン、コン、コン。
今度は水槽ではなく、兄が長椅子の縁を叩いていた。
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