
長編
たゆたう山々
しもやん 2019年6月22日
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俺は登山をする。歩くときは10時間くらい山中にこもってたりもする。
最初は暇な日常を彩るスパイスくらいに考えていた登山も、かれこれ10年近く続いている。とくに三重県と滋賀県の県境を南北に貫く鈴鹿山脈は、すっかりホームグラウンドになった。
それでもなお、しばしば考えられないようなミスをすることがある。たとえば鈴鹿中部の一大登山基地である朝明渓谷から入山し、中峠を経由して神崎川の渓谷美を楽しもうと計画したとする。中峠への遡行ルートは多少荒れてはいるものの、入り口に道標も完備され、まず見落とすような気づかいはない。
それでも俺はこの入り口をたびたび見落とし、羽鳥峰峠のほうへ引っ張られてしまうことがよくある。いつまで経っても中峠ルートに着かないぞと首をひねっていると、羽鳥峰峠の道標に出くわして愕然とする。こんなミスを何度もくり返している。慌てて引き返すと、今度はあっさり入り口を見つけられるのだが。
こんな話もある。同じく朝明渓谷から入山し、根の平峠を経由して国見岳方面へ南下するルートの途中、ブナ清水という飲用に適した湧水があるのだそうだ。なぜ伝聞形式なのかというと、俺はいまだにブナ清水にお目にかかったことがないのだ。この湧水にありつけた山屋のレポートを読む限り、それほど込み入った場所にあるわけではないらしい。
それどころか初見のハイカーですら、あっさり見つけているらしいのだ。自慢じゃないが、俺は鈴鹿山脈については一家言がある。そこらの一見さんなんかとは比較にならないほどこの山脈を歩き通し、鈴鹿深部と呼ばれる玄人向けのルートを勘と方向だけを頼りに開拓している。もし初見のハイカーが見つけられるような場所にブナ清水があるのなら、俺に見つけられないはずがない。
例の湧水のあるルートは当然何度も通っているし、その都度注意深く探してもいる。それでもいままでただの一度も、ブナ清水を飲めずにいる。これはいったいどういうことなんだろうか。
量子力学の哲学的な考えかたのひとつに、コペンハーゲン解釈というのがある。量子力学とは電子などのミクロな事象のふるまいを記述する学問で、いまのところ世界の構造をもっともうまく説明している無敵の科学だ。それによれば電子(あまりにも小さいので、面積を持たない点として表現される)などのミクロな物体は、本質的に観測不可能なのだそうだ。
電子顕微鏡で電子をのぞいてみたとしよう。するとその観測行為自体が擾乱要因になって、電子になにがしかの影響を与えてしまう。電子はエネルギー的に励起されて自然の状態ではなくなる。電子の位置を特定すれば運動方向がぼやけるし、運動方向を特定しようとすれば位置がぼやける。〈ハイゼンベルクの不確定性〉だ。
もし電子の位置をX、Y、Zの3座標で表現できないなら、どうなるのだろうか。量子力学では電子の位置を確率の波として記述する。位置を確定できないのだから、電子は部屋いっぱいに広がっていて、観測した瞬間に1点へと収斂するというのだ。これは〈波動関数の収束〉と呼ばれている。
電子が空間に広がっているようなあいまいな存在なら、究極的には俺たちの住むマクロ世界もそうなっていない保証はどこにもない。なんといってもすべての物体は陽子と電子でできているのだから。マクロとミクロの境界はすこぶるあいまいである。電子がミクロで野球ボールはマクロ。異論はないかもしれないが、ではウイルスはどうか。むき出しのDNAは十分に小さい。いったい誰が量子力学的な効果の出始める境界を決めるのだろうか。
久しぶりに通る道を歩いていて、ふと違和感を覚える瞬間は誰にでもあるはずだ。いつの間にあんなでっかいビルが建ったんだろうとか、いつか入ってみようと思っていたカフェがどうしても見つからないとか。自宅に帰ってきて服を脱ぎ散らかし、コーヒー片手に一息入れた瞬間、家具の位置が微妙に変わっているのに気づく。
コペンハーゲン解釈は観測によって波動関数が収束すると主張する。電子だけではなくこの世界そのものでさえも量子的な重ね合わせ状態になっており、観測されるまではさまざまな姿がダブっているというのだ。箱に入った猫は死んでいると同時に生きてもいる。中峠の入り口を示す道標は観測されるまで存在していないかもしれない。ブナ清水と呼ばれる湧水は、ハイカーにも見つけられるほど明確な位置にあることもあれば、登山道から大きくはずれた斜面にひっそりと湧き出ているのかもしれない。それは誰かが観測するまでわからない。そして観測者がいなくなれば、再びあいまいな確率波として空間に発散する。
晩秋になってヤマヒルも鳴りを潜め、落ち葉の堆積する肌寒い鈴鹿を歩いているとき、俺は例のごとくルートミスをやらかす。何度も歩いている通勤路のような登山道のはずなのにと首を傾げながら戻る。そんなとき俺は何重にもたゆたって登山者を幻惑する、量子力学的な重ね合わせになった魔の山々を想像し、身震いする。
鈴鹿にはさまざまな名勝がある。庵座の滝、お金明神、御池のテーブルランド、地蔵岩。いまこの文章を読んでいる人がもしいるのなら、これらのワードを検索してみてほしい。果たしてヒットするだろうか。読者は俺とまったく同じ宇宙に住んでいるのだろうか。
そうであることを願う。
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