
長編
吹雪の山中にて
しもやん 2日前
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。吹雪の向こうに四日市市の夜景がぼんやりと霞んでいる。まだ油断はできない。進路を南にとり、最後の雪原を横断する。このあたりは夏季ですら迷いやすい平原なのだが、進行方向にはまるでついてこいとでも言うかのように、勇ましい登山者が視界の端ぎりぎりを歩いていた(というかそのように俺には思えた)。
20:00すぎ、暴風雪の向こうに蜃気楼のごとく、藤原岳避難小屋が浮かび上がる。身体中から力が抜けた。ここまでくれば、あとは顕著な尾根を下っていくだけだ。尾根に乗ると樹木にさえぎられて吹雪も緩み、寒さもいくぶん和らぐ。傾斜もなだらかで難しいところはない。下山は21:10。カタクリ峠でピストンを決めてから実に4時間以上、日没後の猛吹雪のなかをさまよっていた勘定になる。非常につらい山行だった。
俺は無神論者だし、怪力乱神のたぐいはいっさい信じていない。神や幽霊は存在しない。それを俺はもはや「知っている」。例の登山者はおそらく脳が作り出した幻覚だったのだろう。生存への執念が正解ルートを視覚化したのにちがいない。そう確信している。そうしないと俺が寄って立つ科学合理主義がこっぱみじんに粉砕されてしまうからだ。
彼が脳の産物であれ(ありそうにないが)超自然的ななにかであれ、俺は運がよかった。ビーコンになった登山者の幻影は正しい道を教えてくれたからだ。この経験ののち、俺はめったに天候の崩れた冬山には入らなくなったが、天気予報が外れて降雪に見舞われることはもちろんある。
そんなとき、ふと思う。次に彼の姿を見ることがあるとしたら、果たして彼は正解ルートを先導してくれるのだろうか。彼は信頼に値するのだろうか。確かな足取りで進んでいく彼の表情が、悪意に満ちた笑顔でない保証はあるのだろうか。
俺にはわからない。
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