れることなく霧の向こうから吐き出されてくるのだ。

 誰もがまるで昼間の晴天のなかを歩いているみたいに、確かな足取りで歩き、対岸の笠ヶ岳が見えるかのようにニコニコしていた。ほとんどの登山者が脇へ避けている俺に対して「すいません」だの「ありがとう」だの一言かけていく。1人くらいならまだわかる。2~3人でもまあ、穂高くらい有名な山になら無茶をやる人間がいてもおかしくはない。けれどもこの時間、この天候のなか、100人は下らない大パーティで危険な白出沢を下降するというのはもう、完全に狂気の沙汰だ。

 俺は「夜間訓練かなにかですか」とは最後まで聞けなかった。なにか見当ちがいの回答をされそうな気がした。

 ふと気がつくと、誰ともすれちがっていないことに気づいた。霧の向こうからは誰も歩いてこない。それでも俺はすぐに歩き出せなかった。この霧の向こうに入ると、どこかよその山へ放り出されるような気がした。

 20分くらいはじっとしていただろうか。不意に霧が晴れ始めた。晴れるときは本当に一瞬で晴れるものだ。あれだけ悪かった視界がクリアになって、歩くのにはなんの支障もなくなった。俺は気が進まないままゆっくり歩を進めてみた。妙な場所へワープするようなことはもちろんなかった。

 やがて目の前に石垣らしき人工物があるのに気づく。見上げるとすぐそこに穂高岳山荘があった。なぜ灯りがついていないのか不思議に思う。また幻覚かもしれない。慎重に近づいていくと、今度こそ本当に山荘だった。時刻を確かめる。21:15。とっくに消灯している時間だったのだ。

 ぼろぼろの死に体になりながら、扉を開ける。灯りの落とされた小屋の受けつけは当然閉められており、宿泊の手続きができない。ラウンジにいた若い兄ちゃんたちが駆けつけてくれて、今日はそこらへんのベンチで寝たらいい、金はあとで払えばいいさと教えてくれた。彼らに感謝しつつ、俺はベンチにシュラフを展開し、飯も食べずに横になった。

 硬いベンチは当然寝心地は最悪で、これだけ疲れているにもかかわらず、まったく寝られなかった。うとうとすると決まって、霧の向こうから現れた例の団体が脳裏によみがえる。

 彼らは無事に下山できたのだろうか。

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本宮晃樹さんの投稿

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