〈自然主義の誤謬〉という格言があるのをご存じだろうか。

 20世紀中葉、第二次大戦から復興しつつある世界は繁栄を極めていた。経済成長は右肩上がり、テレビ、冷蔵庫、エアコンといった必須アイテムが登場したのもこのころである。人びとはバラ色の未来を容易に思い描くことができた。

 ところが繁栄の裏には醜聞が隠れていた。企業は負の外部性※をともなう環境破壊をさんざんにやらかしていたのだ。水俣病、四日市ぜんそく、イタイイタイ病。大勢の人間が犠牲となった。

※有毒な工場排水をろ過しないまま垂れ流すなど、コストを支払う主体が自分以外の多数に分散されているような行為は過剰に促進される。これらをやめさせるには汚染に対する税を課す(=ピグー税)ことや汚染許可の購入など、経済的な解決方法が有効である。

 こうした事情を受けて、20世紀末は環境の時代となった。すべからく自然は美しく、気高く、人間の野蛮な文明などはおよびもつかないほどの自浄システムを備えている。自然に勝るものはなく、愚かな人間どもは自然の前にひれ伏すべし。こうした風潮は21世紀の現在にいたるまで脈々と受け継がれている。エコ商品、SEALSと名乗るクジラ偏愛集団、温暖化に関する宗教じみた主張。
 自然は絶対的に正しい。どうもそういうことらしい。

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 なぜかくも自然は神聖視されているのだろうか。
 その原因の一端は高度情報化社会にありそうだ。

 情報には一次情報とそれ以降のもの(二次、三次……n次情報)が存在する。一次情報はなんらかの現象を観察したり実験したりした人間そのものが発信する情報のことで、これは(観察なり実験なりに再現性があれば)信憑性が高い。例を挙げよう。

 ある動物行動学者が〈動物は同じ種同士では互いに殺し合わない〉という観察結果を発表したとしよう。これが一次情報である。彼はアフリカのサバンナなりジャングルなりに潜入し、一定期間動物たちの行動を観察した結果、そう結論した。さてこの見解を確認するのは骨が折れる。誰もが何か月も異国の地でのらくらできるほど裕福ではない。それに他人の研究結果を追試するだけの仕事は、科学界では評価されづらいという事情もあるだろう。

 その結果、上記の観察結果はろくに確かめられもせずにほかの学者なり自然保護団体なりに引用されうる。これが二次情報である。発信者の情報をそのまま引用しているので

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