末期癌で、天涯孤独で、すでに麻薬で痛みを和らげている40代のEさん
見舞いにくる人もいませんでした
でも、長く飲み屋さんで働いていたらしく
人と話すことやお酒を飲むことが好きだったようでした
明瞭ではない意識状態でもたまに回診で医師に「ビール飲みたいな」などとはなしていたそうです
担当医は自分が当直の日にはこっそりと瓶のビールを一本だけ買ってきては
私たち看護師にこっそり飲ませてあげてほしいとそのビールを渡しました
夜勤が忙しくない時には、こっそり担当医と看護師などで見守りながらビールを飲ませてあげました
小さなグラスにビールを注ぎます
Eさんは嬉しそうに注がれるビールの泡を眺めます
そして「いただきます」と私たちに軽く頭を下げ、飲み干すのです
一杯のビールを飲み干すとEさんは満足した顔で
「おいしかった ありがとうございます」
そう言って横になります
気分が良いのか、私たちが病室を去ると
鼻歌が聞こえます
Eさんの病室はナースステーションの目の前で、いつもドアは開けたまま
廊下からは目隠しのためにカーテンをしてありました
ビールを飲んで鼻歌に合わせて、ベットから手を垂らし
その手は鼻歌に合わせてブラブラと揺れていました
今日も気分が良いのだろうな、良かったなとたまに同僚と話したりすることもよくありました
Eさんは半年ももたずに一人でひっそりと亡くなりました
一年も経ってはいなかったと思います
夜勤の途中、同僚と休憩室で休みながら雑談をしていました
すると
「フフン♪フンフン…フンフン♪」
誰かの鼻歌が聞こえます
私たちは目と目を合わせました
あのEさんの鼻歌です
二人とも互いに青ざめた顔を見つめあい、動けません
すぐに近くから聞こえるのです
しばらくの間、その鼻歌は小さくなったり、聞こえなくなったり、また聞こえ出したりしていました
私は同僚に言いました
「見てくるわ」
同僚も着いてきます
ナースステーションの奥に私たちの休憩室
その手前には採血や点滴などの処置をする処置室があります
処置用のベッドに、手前には遮るためのカーテン
普段は処置で使用する時以外にはカーテンはしまっていません
カーテンは閉まっていました
暗がりの向こう側、カーテンの下からは
ぶらんぶらんと揺れる手がありました