「死」とは客観的な概念である。
なぜなら、死んだ本人は死んだことに気づかないからである。
死んだ人間を周りの人間が「死んだ」と認識することで初めて「死」が成立するのである。
例えば、「小学生の女の子が学校で先生に褒められ、これを早く母親に伝えたいと思い、走って家に帰る途中、車にひかれて死んだ」としよう。
このとき、女の子は不幸だろうか?
私は、そうは思わない。
なぜなら、女の子は自分が死んでいることに気づいておらず、先生に褒められ「うれしい」という気持ちの中、人生を終えることができたからである。
一方、不幸なのは母親である。
自分の娘の「死」を認識し、受け入れなければならないからである。
多くの人は女の子の将来性を含めて、「女の子がかわいそう」とかいうが、その子が幸せになるという保証はない。
また、長く生きることが幸せとも限らない。
私の趣味は銭湯に行ってサウナに入ることである。
しかし、サウナの中では毎回同じメンツのクソジジイ共が
「ああ、死にたい」
とか言っている。
彼らは、「死」というものを他人に甘えるための道具として使っているのだ。
本当は、定年退職し、暇だから、他人に優しくしてもらいたいために「死」を利用しているのだ。
私は、たとえ長く生きたとしても「死」をこのように軽く使いたくはない。
せっかく親から与えられた「生」なのだから。
では、どうすれば「満足できる人生」を送ることができるのだろうか。
私は、「人のために生きること」と解する。
自分の人生とは、「ジグソーパズルのワンピース」である。
他人があって初めて自分が存在する。
色々な人の人生がそれぞれワンピースとして存在し、それらが結合し、残された最後の枠に入るのが自分の人生である。
愛されている人は、愛してくれる人を喜ばせようと一生懸命生きる。
そして、結果を出し、愛してくれる人(周りのワンピース達)を喜ばせる。
他人のために生きる人生を選択すれば「満足できる人生」を送ることができるだろう。
そう、小学生の女の子のように。 完
*「私」が実際に体験した「本当にあった怖い話」シリーズ
① スーパー銭湯
② 扇風機おじさん
③ 喪黒兄
④ 「死」の概念
⑤ 自転車チャンピオン
⑥ スネオ系男子
⑦ ケンシロウ